・・・地平も、そのころ、おのれを仕合せとは思わず、何かと心労多かったことであったようだが、それより、三年たって、今日、精も根も使いはたして、洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまって、ああ、夕立よ、ざっと降れ、銀座のまんなかであろうと、二重・・・ 太宰治 「喝采」
・・・君の足もとの板は、腐りかけているようだ。もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合いに、耳朶をちょろちょろとくすぐりながら通るのは、南風の特徴である。 見渡したところ、郊外の家の屋根屋根は、不揃いだと思わないか。君はきっと、銀座か新・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・見渡すかぎり、人の影がなかった。腐りかけた漁船がひとつ、砂浜に投げ捨てられ、ひっくりかえって、まっくろい腹を見せてあるほかには、犬ころ一匹いなかった。私は、ズボンのポケットに両手をつっこみ、同じ地点をいつまでもうろうろ歩きまわり、眼のまえの・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・もう四日出勤して五日も経てば、ぼくは腐りの絶頂でしょう。今晩は手紙を書くのがイヤです。明晩明後日と益々イヤになるでしょう。虫の好い事を云いつづけに、思いきり云います。一つ叱って下さい。ああ。ぼくに東京に帰ってこい、といって下さい。嘘! ぼく・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・不忍の池を拭って吹いて来る風は、なまぬるく、どぶ臭く、池の蓮も、伸び切ったままで腐り、むざんの醜骸をとどめ、ぞろぞろ通る夕涼みの人も間抜け顔して、疲労困憊の色が深くて、世界の終りを思わせた。 上野の駅まで来てしまった。無数の黒色の旅客が・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・ 私は馬場の興奮に釣られてうろうろしはじめ、蒲団を蹴って起きあがり、馬場とふたりで腐りかけた雨戸をがたぴしこじあけた。本郷のまちの屋根屋根は雨でけむっていた。 ひるごろ、佐竹が来た。レンコオトも帽子もなく、天鵞絨のズボンに水色の毛糸・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・日に十里を楽々と走破しうる健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐りはてたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持なく、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つきあわせると吠えあい、噛みあい、もって人・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・口が腐りますよ。まあ、どこを押せばそんな音が出るのでしょう。色気違いじゃないかしら。とても、とても、あんな事が、神聖なものですか。 さて、それでは、その恋愛、すなわち色慾の Warming-up は、単にチャンスに依ってのみ開始せられる・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・君みたいな奴と、あんまり、あと腐りの縁を持ちたくないから、僕は、さっきから、ばかみたいに、いい加減にとぼけていたのだ。僕は、すっかり知っている。君は、女だ。君は、きょうの夕方、その窓の外で、パリパリと低い音たてて傘をひらいた。あの、しのぶよ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間を取って捨てて、新しい健全なものをその代りに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈はひとりでに綺麗に消滅した。 病源を見つけたのが第一のえらさ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫