・・・「ずいぶんしばらくだわねえ。私がUにいる時分にお眼にかかった切りなんだから。あなたはちっともお変りにならない。」なんて云う。――お徳の奴め、もう来た時から酔っていたんだ。 が、いくら酔っていても、久しぶりじゃあるし、志村の一件があるもん・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・慈悲心で黙って書かしてくだすったのであるという。それが絵ごとそっくり田舎の北国新聞に出ている。即ち僕が「冠弥左衛門」を書いたのは、この前年であるから、ちょうど一年振りで、二度の勤めをしている訳である。 そこでしばらく立って読んで見ている・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛け・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・昔物語にはこんな家の事を「くだ」付き家と称して、恐わがっている。「くだ」というのは狐の様で狐にあらず、人が見たようで、見ないような一種の動物だそうだ。 猫の面で、犬の胴、狐の尻尾で、大さは鼬の如く、啼声鵺に似たりとしてある。追て可考。・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・「どこへ行くだ、辰さん。……長塚の工事は城を築くような騒ぎだぞ。」「まだ通れないのか、そうかなあ。」店の女房も立って出た。「来月半ばまで掛るんだとよう。」「いや、難有う。さあ引返しだ。……いやしくも温泉場において、お客を預る自動車屋ともある・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・万屋 くだらない事を言いなさるな、酔ったな、親仁。……人形使 これというも、酒の一杯や二杯ぐれえ、時たま肥料にお施しなされるで、弘法様の御利益だ。万屋 詰らない世辞を言いなさんな。――全くこの辺、人通りのないのはひどい。……先刻・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・それだからおッ母さん心配しないでください」 これは省作の今の心の事実であるが、省作の考えでは、こういったら母の心配をいくらかなだめられると思うたのである。ところがそう聞いて母の顔はいよいよむずかしくなった。老いの眼はもう涙に潤ってる。母・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「こんな、人間並でない自分をも、よく育てて、かわいがってくだすったご恩を忘れてはならない。」と、娘は、老夫婦のやさしい心に感じて、大きな黒い瞳をうるませたこともあります。 この話は遠くの村まで響きました。遠方の船乗りや、また漁師は、・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・新聞を見たのでたまりかねて飛んできたが、見れば俺も老けたがお前ももうあまり若いといえんな、そうかもう三十七かと、さすが落語家らしい口調で言って、そして秋山さんの方を向いて、伜の命を助けてくだすったのはあなたでしたかと、真白な頭を下げた。する・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
昨日 当時の言い方に従えば、○○県の○○海岸にある第○○高射砲隊のイ隊長は、連日酒をくらって、部下を相手にくだを巻き、○○名の部下は一人残らず軍隊ぎらいになってしまった。 彼は蓄音機という綽名を持ち、一年三百六十五日、一日も・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫