・・・下にはその顔が鏡にうつしたように、くっきりと水にうつッていました。それはそれは何とも言いようのない、うつくしい女でした。 ギンはしばらく立って見つめていました。そのうちに、何だか、じぶんのもっている、大麦でこしらえたパンとバタを、その女・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・僕のおなかの、ここんとこに君の下駄の跡が、くっきり附いてるじゃないか。君が、ここんとこを、踏んづけて行ったのだぞ。見たまえ。」「見たくない。けがらわしい。早く着物を着たらどうだ。君は、子供でもないじゃないか。失敬なやつだ。」 少年は・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・、パリイの裏町の汚いアパアトの廊下で、やはり私と同じとしの娘さんが、ひとりでこっそりお洗濯して、このお月様に笑いかけた、とちっとも疑うところなく、望遠鏡でほんとに見とどけてしまったように、色彩も鮮明にくっきり思い浮かぶのである。私たちみんな・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・私の眼が、だんだん、うすくらがりに馴れるにしたがい、その少女のすがたが、いよいよくっきり見えて来た。髪を短く刈りあげて、細い頬はなめらかだった。「なにになさいます?」 きよらかな声であると私は思った。「ウイスキイ。」 私は、・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・その、くっきり曲った鉄釘が、少しずつ、少しずつ、まっすぐに成りかけて、借金もそろそろ減って来たころ、どうにでもなれ! 笠井さんは、それまでの不断の地味な努力を、泣きべそかいて放擲し、もの狂おしく家を飛び出し、いのちを賭して旅に出た。もう、い・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透き徹っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・少しもう薄暗くなった夕方でも、このまっ白な綿の団塊だけがくっきり畑の上に浮き上がって見えていたように思う。そういうとき、郷里で「あお北」と呼ぶ秋風がすぐそばの竹やぶをおののかせて棉畑に吹きおろしていたような気がする。 採集した綿の中に包・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・もやもやした霧の中から突然日輪でも出現したようにあまりにくっきりとそれだけが聞こえて、あとはまた元どおりぼやけてしまった。「イゴッソー」というのは郷里の方言で「狷介」とか「強情」とかを意味し、またそういう性情をもつ人をさしていう言葉であ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そういう場合には、眼前の数首の歌で一つの面を作っているとすると、その面の上にも下にもいくつもの面が限りもなく層状に重畳していて、つまり一つの立体的の世界がある、その世界の一つの断面がくっきり描かれているような気がします。それである一つの歌と・・・ 寺田寅彦 「書簡(2[#「2」はローマ数字2、1-13-22])」
・・・地図の上ではちがった絵の具でくっきりと塗り分けられた二つの国の国境へ行って見ても、杭が一本立ってるくらいのものである。人間のこしらえた境界線は大概その程度のものである。人間の歴史のある時期に地球上のある地点に発生した文化の産物は時間の経過と・・・ 寺田寅彦 「日本楽器の名称」
出典:青空文庫