・・・ エマーソンとラスキンの言葉を加えて二で割って、もう一遍これを現在のある過激な思想で割るとどうなるだろう。これは割り切れないかもしれない。もし割り切れたら、その答はどうなるだろう。あらゆる思想上の偉人は結局最も意気地のない人間であったと・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・いよいよ星が見え出しても口に銜えた煙草を捨てないで望遠鏡を覗いていると煙が直上して眼を刺戟し、肝心な瞬間に星の通過を読み損なうようなことさえあった。後にはこれに懲りて、いよいよという時の少し前に、眼は望遠鏡に押付けたまま、片手は鉛筆片手は観・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・どうするかと思っていると、このやや長味のある団塊をうまく二つに食い切って、その片方を丁寧に丸めた後に、それを銜えて前日と同じ方向へ飛んで行った。 立ち際にその尾部から一、二滴の透明な液体を分泌するのがよく見えた。おそらく噛みながら吸い取・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
・・・若くて禿頭の大坊主で、いつも大きな葉巻を銜えて呑気そうに反りかえって黙っていたのはプリングスハイムであった。イグナトフスキーとかいうポーランド人らしい黒髪黒髯の若い学者が、いつか何かのディスクシオンでひどく興奮して今にも相手につかみかかるか・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・その頃、英語は高等小学校の三、四年頃から課目に加えられていた。教科書は米国の『ナショナル・リーダー』であった。中学校に進んで、一、二年の間はその頃新に文部省で編纂した英語読本が用いられていたが書名は今覚えていない。この読本は英国人の教師が生・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・て立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るように前身をそらして、櫛の背を歯に銜え、両手を高く、長襦袢の袖口はこの時下・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・更に第三の搏撃が加えられた。そうして赤犬を撲殺した其棍棒は折れた。悪戯の犠牲になった怪我人は絶息したまま仲間の為めに其の家へ運ばれた。太十は其夜も眠らなかった。彼は疲労した。七 怪我人は蘇生した。続いて脳震盪を起した。其家族・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「九仞の上に一簣を加える。加えぬと足らぬ、加えると危うい。思う人には逢わぬがましだろ」と羽団扇がまた動く。「しかし鉄片が磁石に逢うたら?」「はじめて逢うても会釈はなかろ」と拇指の穴を逆に撫でて澄ましている。「見た事も聞いた事もないに、こ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ついに思いきった様子で、宛名は書かず、自分の本名のお里のさ印とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えていた。 廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包み・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・是等は都て美術上の意匠に存することなれば、万事質素の教は教として、其質素の中にも、凡そ婦人たる者は身の装を工風するにも、貧富に拘わらず美術の心得大切なりとの一句を加えたきものなり。一 我里の親の方に私し夫の方の親類を次にすべから・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫