・・・三重子もこう言う鳥のように形骸だけを残したまま、魂の美しさを失ってしまった。彼ははっきり覚えている。三重子はこの前会った時にはチュウイン・ガムばかりしゃぶっていた。そのまた前に会った時にもオペラの唄ばかり歌っていた。殊に彼を驚かせたのは一月・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・そしてその形骸は影の彼に導かれつつ、機械人形のように海へ歩み入ったのではないでしょうか。次いで干潮時の高い浪がK君を海中へ仆します。もしそのとき形骸に感覚が蘇えってくれば、魂はそれと共に元へ帰ったのであります。哀れなるかな、イカルス・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・しかしかれと対座してその眼を見、その言葉をきくと、この例でもなお言い足りないで、さらに悲しい痛ましい命運の秘密が、その形骸のうちに潜んでいるように思われた。 不平と猜忌と高慢とがその眼に怪しい光を与えて、我慢と失意とが、その口辺に漂う冷・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・こうして汚れた西瓜の無残な形骸が処々の草の中に発見されるのである。西瓜がなくなって雑談に耽りはじめた時「あれ」と一人が喫驚したようにいった。「どうした」「何だ」 罪を犯した彼等は等しく耳を欹てた。其一人は頻りに帯のあたり・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸のために器械の用をなすと一般だからである。その時わが精神の発展が自個天然の法則に遵って、自己に真実なる輪廓を、自らと自らに付与し得ざる屈辱を憤る事さえある。 精神がこの屈辱を感ずるとき、・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・と云うものがなければ、其は、その形骸のみをそなえて最も尊い霊を失ったものである。 世の中のあらゆるものに「真」のないものは決して長生する事は出来ない。 聖ダンテの「神曲」は、何故今日まで不朽に生命を受けて居るか。 永遠に変らざる・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・或は徒の形骸にのみ虚勢を張って居ります。 其故、私は未だ米国婦人の獲得した権能を所有しない日本の女性は、其の権能を要求し、獲得し、運用する場合に、より純一で、より高い動機で総ての行為が支配される事を希うのでございます。 C先生、今も・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・それ故、徒に新奇を競うて、外国人の営む生活の形骸を真似るのは、全く笑うべく悲しむべきことです。 併し、一国の文化、社会状態を観察した場合に、何時も、その裏面、消極的方面のみに注目するのは、果して妥当な態度でしょうか。 他人の話を聞き・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・何故なら大戦の経験後、今日の、ブルジョア・ヨーロッパの文化は、女に対する男の騎士道の礼儀を単に一つの、それが単なるしきたりであると男女相互の間に十分理解されつくしているところのしきたりとしての形骸をとどめているに過ぎないのであるから。ヨーロ・・・ 宮本百合子 「日本の秋色」
・・・若し方今のありさまにて、傾蓋の交はかかる所にて求むべしといわばわれ又何をかいわん。停車場は蘆葦人長の中に立てり。車のいずるにつれて、蘆の葉まばらになりて桔梗の紫なる、女郎花の黄なる、芒花の赤き、まだ深き霧の中に見ゆ。蝶一つ二つ翅重げに飛べり・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫