・・・あの人は無理に笑ってみせようと努めたようだが、ひくひく右の頬がひきつって、あの人の特徴ある犬歯がにゅっと出ただけのことである。 私はあさましく思い、「あなたよりは、あなたの奥さんの方が、きっぱりして居るようです。私に決闘を申込んで来まし・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ただし、左の下あごの犬歯の根だけ残っていたのが容易に抜けないので、がんじょうな器械を押し当ててぐいぐいねじられたときは顎骨がぎしぎし鳴って今にも割れるかと思うようで気持ちが悪かった。手術がすんだら看護婦が葡萄酒を一杯もって来て飲まされ、二三・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 当時わたくしは若い美貌の支那人が、辮髪の先に長い総のついた絹糸を編み込んで、歩くたびにその総の先が繻子の靴の真白な踵に触れて動くようにしているのを見て、いかにも優美繊巧なる風俗だと思った。はでな織模様のある緞子の長衣の上に、更にはでな・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋をとると、赤い絹糸で括りつけた蚊遣灰が燻りながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云う・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・瞼の周囲に細い淡紅色の絹糸を縫いつけたような筋が入っている。眼をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首をちょっと傾けながらこの黒い眼を移して始めて自分の顔を見た。そうしてちちと・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立てたりする。全部が一度に動いて顔の周囲を廻転するかと思うと、局部が纔かに動きやんで、す・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・草食獣にある臼歯もあれば肉食類の犬歯もある。混食をしているのが人類には一番自然である。そう出来てるのだから仕方ない。それをどう斯う云うのは恩恵深き自然に対して正しく叛旗をひるがえすものである。よしたまえ、ビジテリアン諸君、あんまり陰気なおま・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・間もなく長さ十米ばかりの細い細い絹糸でこさえたようなはしごが出来あがりました。「いいかい。こいつをね。あの栗の木に掛けるんだよ。ああ云う工合にね。」紳士はさっきの二人の男を指さしました。二人は相かわらず見えない網や糸をまっさおな空に投げ・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・土庇の深く出た部屋で、その庭には槇と紫陽花と赤い絹糸の総をかけたような芽をふく楓が一株あった。蕗の薹も出た。その小部屋は、親たちのいるところと、夜は真暗な妙にくねった廊下でへだてられていた。父や母は壮年時代の旺盛な生活ぶりで、どちらかという・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ 突然死んだドラの唯一人の仲よしであったベンジャミンは、翌日、夕刊に、ドラを視た検屍官の逮捕状で一人の男が検挙されたのを読むと一寸出て来ると云ったぎり、もう再び生きた姿を両親に見せませんでした。彼は、警察署に行くと、捕えられて来ていたそ・・・ 宮本百合子 「「母の膝の上に」(紹介並短評)」
出典:青空文庫