・・・油然として同情心が現前の川の潮のように突掛けて来た。 ムムウ。ほんとのお母さんじゃないネ。 少年は吃驚して眼を見張って自分の顔を見た。が、急に無言になって、ポックリちょっと頭を下げて有難うという意を表したまま、竿を持って前の位置に帰・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・見ると、玄関の式台には紋服を着た小坂吉之助氏が、扇子を膝に立てて厳然と正座していた。「いや。ちょっと。」私はわけのわからぬ言葉を発して、携帯の風呂敷包を下駄箱の上に置き、素早くほどいて紋附羽織を取出し、着て来た黒い羽織と着換えたところま・・・ 太宰治 「佳日」
・・・一つとして手がかりの無い儼然たる絶壁に面して立った気持で、私は、いたずらに溜息をもらすばかりであった。私の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・もちろん物理学の場合には自然という客観的存在が厳然として控えているから、たとえ研究の道筋に若干偶然的な変化があっても、最後の収穫は結局同じであるべきだという説が一般には信用されるであろう。そうして人類の歴史との比較は全然不当としてしりぞけら・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・活動写真に関係する男女の芸人に対しても今日の僕はさして嫌悪の情を催さず儼然として局外中立の態度を保つことができるようになっている。之を要するに現代の新女優、給仕女、女店員、洋風女髪結のたぐいは、いずれも同じ趣味と同じ性行とを有する同種の新婦・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・否彼の多年住み古した家屋敷さえ今なお儼然と保存せられてある。千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく今日まで昔のままで残っている。カーライルの歿後は有志家の発起で彼の生前使用したる器物調・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・その時余の受けた感じは、品位のある紳士らしい男――文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない、あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士から受くる社交的の快味であった。そうして、この品位は単に門地階級から生ずる貴・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・なぜかと云うと元来この私と云う――こうしてフロックコートを着て高襟をつけて、髭を生やして厳然と存在しているかのごとくに見える、この私の正体がはなはだ怪しいものであります。フロックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・去れどその事実を事実と証する程の出来事が驀地に現前せぬうちは、夢と思うてその日を過すが人の世の習いである。夢と思うは嬉しく、思わぬがつらいからである。戦は事実であると思案の臍を堅めたのは昨日や今日の事ではない。只事実に相違ないと思い定めた戦・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と云って無はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。 はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。第三夜 こんな夢を見た。 六つに・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫