・・・何処かの戸が開いているのか、或は故意と閉めずにあるのか、実際彼の耳には、時々瀬戸物の触れ合う音に混って彼女の声が聴えて来た。 其晩迄、彼は若い妻の声に特殊な注意を牽かれたことはなかった。其那に朗らかとも美麗とも思ったことはなかったのだが・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・主人と犬との間にひとりでに生じる感情の疎通で、いつとなく互に要求が解るだけでよい。故意と仕込むのは、植木に盆栽と云う変種を作って悦ぶ人間のわるい小細工としか思われない。世にも胸のわるいのは、欧州婦人がおもちゃにする、小さな、ひよわい、骸骨に・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ 普請中のレーニン廟の数町に渡る板がこいは、あでやかな壁画で被われている。 集団農場の光景だ。 果しない耕地にトラクターが進んでゆく。青葉の繁った木立ちのこっち側には集団牧場がみえる。楽し気な牛、馬、羊、年とった集団農場員が若い・・・ 宮本百合子 「インターナショナルとともに」
・・・茶碗の底には五立方サンチメエトル位の濃い帯緑黄色の汁が落ちている。花房はそれを舐めさせられるのである。 甘みは微かで、苦みの勝ったこの茶をも、花房は翁の微笑と共に味わって、それを埋合せにしていた。 或日こう云う対坐の時、花房が云った・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ 違棚の上でしつっこい金の装飾をした置時計がちいんと一つ鳴った。「もう一時だ。寝ようかな。」こう云ったのは、平山であった。 主客は暫くぐずぐずしていたが、それからはどうした事か、話が栄えない。とうとう一同寝ると云うことになって、・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・と云うのは、秋三の祖父が、血統の不浄な貧しい勘次の父の請いを拒絶した所、勘次の母は自ら応じてその家へ走ったことから始まった。祖父の死後秋三の父は莫大な家産を蕩尽して出奔した。それに引き換え、勘次の父は村会を圧する程隆盛になって来た。そこで勘・・・ 横光利一 「南北」
・・・右上には窓があって、その端のわずかに開いたところから、庭の緑や花の濃い色が、画面全体を引きしめるようにのぞいている。いかにも清楚で柔らかな感じを持った画である。『いでゆ』を作者と同じ立場に立って批評すれば、第一に、温泉浴室の柔艶な情趣を・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫