・・・ その翌日、午前中に、吉弥の両親はいとま乞いに来た。僕が吉弥をしかりつけた――これを吉弥はお袋に告げたか、どうか――に対する挨拶などは、別になかった。とにかく、僕は一種不愉快な圧迫を免れたような気がして、女優問題をもなるべく僕の心に思い・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・頗る見事な出来だったので楢屋の主人も大に喜んで、早速この画を胴裏として羽織を仕立てて着ると、故意乎、偶然乎、膠が利かなかったと見えて、絵具がベッタリ着物に附いてしまった。椿岳さんの画には最う懲り懲りしたと、楢屋はその後椿岳の噂が出る度に頭を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・初めから同じ結論に達するのが解っていても故意に反対に立つ事が決して珍らしくなかった。かつこの反対の側から同じ結論に達する議論を組立てる手際が頗る鮮かであった。 負け嫌いの甚だしいは、人に自分の腹を看透かされたと思うと一端決心した事でも直・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・と、やがて持って来た大串の脂ッこい奴をペロペロと五皿平らげた。 私は食物には割合に無頓着であって、何処でも腹が空けばその近所の飲食店で間に合わして置く方であるが、二葉亭はなかなか爾う行かなかった。いつでも散歩すると意見の衝突を来すは必ず・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ソコで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そうすれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、暁方まで読んだところが、あしたの事業に妨げがあるというので、その本をば机の上に抛り放しにして・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・デンマークは和を乞いました、しかして敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。戦争はここに終りを告げました。しかしデンマークはこれがために窮困の極に達しました。もとより多くもない領・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・その口供が故意にしたのであったという事は、後になって分かった。 ある夕方女房は檻房の床の上に倒れて死んでいた。それを見附けて、女の押丁が抱いて寝台の上に寝かした。その時女房の体が、着物だけの目方しかないのに驚いた。女房は小鳥が羽の生えた・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・こちらに向かってこいでいるようだ。」「幸福の島から、魁をして、こちらの国へやってきたのではないか。」「なんにしても、いまに着いたら、すこしぐらい沖のようすがわかるだろう。」と、みんなは、くびを差し伸ばして黒いもののこの岸に近寄るのを・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・独りでいって見てこい。おらあ、ここに待っている。帰ったら、見てきたことをみんな聞かしてくれ。」と、父親はいいました。 子供は、黙っていました。 このとき、頭の上のひのきの木に風が当たって、鳴っていました。その音を聞いていると、「・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・そこは、ずっとある島の南の端でありまして、気候は暖かでいろいろな背の高い植物の葉が、濃い緑色に茂っていました。女の人は、派手な、美しい日がさをさして、うすい着物を体にまとって路を歩いています。男の人は、白い服を着て、香りの高いたばこをくゆら・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
出典:青空文庫