夏の晩方のことでした。一人の青年が、がけの上に腰を下ろして、海をながめていました。 日の光が、直射したときは、海は銀色にかがやいていたが、日が傾くにつれて、濃い青みをましてだんだん黄昏に近づくと、紫色ににおってみえるのでありました・・・ 小川未明 「希望」
・・・そして戸ごとの軒下にたたずんで、哀れな声で情けを乞いました。けれど、この二人のものをあわれんで、ものを与えるものもなければ、また優しい言葉をかけてくれるものもありませんでした。「やかましい、あっちへゆけ。」と、どなるものもあれば、ま・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・中へ入って助けを乞いますと、小舎の中には、おばあさんと娘が二人きりで、いろりに火をたいて、そのそばで仕事をしていたのであります。 宝石商は、自分は旅のもので野原の中で道を迷ってしまって、やっとの思いでここまできたのであるが、一夜泊めても・・・ 小川未明 「宝石商」
・・・弟の三郎は、姉がかわいそうになりましたので、ともに母親のたもとにすがって許しを請いましたけれど、母親はついに許さなかったばかりでなく、娘を家から外へ追い出してしまいました。「そんなに家へ入りたければ、逃げた鳥を探して捕まえてくるがいい。・・・ 小川未明 「めくら星」
・・・私のようなことを言って救いを乞いに廻る者も希しくないところから、また例のぐらいで土地の者は対手にしないのだ。 私は途方に晦れながら、それでもブラブラと当もなしに町を歩いた。町外れの海に臨んだ突端しに、名高い八幡宮がある。そこの高い石段を・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・男はじっと私の顔を見ていましたが、やがて随いてこいと言って歩きだしました。私は意志を失ったように随いて行きました。 公園を抜けて、北浜二丁目に出ると、男は東へ東へと歩いて行きます。やがて天満から馬場の方へそれて、日本橋の通りを阿倍野まで・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・秀才の寄り集りだという怖れで眼をキョロキョロさせ、競争意識をとがらしていたが、間もなくどいつもこいつも低脳だとわかった。中学校と変らぬどころか、安っぽい感激の売出しだ。高等学校へはいっただけでもう何か偉い人間だと思いこんでいるらしいのがばか・・・ 織田作之助 「雨」
・・・毛並に疲労の色が濃い。そんな光景を立ち去らずにあくまで見て胸を痛めているのは、彼には近頃自虐めいた習慣になっていた。惻隠の情もじかに胸に落ちこむのだ。以前はちらと見て、通り過ぎていた。 ある日、そんな風にやっとの努力で渡って行った轍の音・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・ ちょっと見には、つんとしてなにかかげの濃い冷い感じのある顔だったが、結局は疳高い声が間抜けてきこえるただの女だった。坂田のような男に随いて苦労するようなところも、いまにして思えば、あった。 あれはどないしてる? どないにして暮らし・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖も除き去らずには措かぬという強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞しゅうして考えて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる為めに送って寄越した・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫