・・・という題でおせいとの醜い啀み合いを書いたが、その時分もおせいは故意にかまた実際にそう思いこんだのか、やはり姙娠してると言いだして、自分をしてその小説の中で、思わず、自然には敵わないなあ! と嘆息させたのであるが、その時は幸いに無事だったが、・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・向こう岸には闇よりも濃い樹の闇、山の闇がもくもくと空へ押しのぼっていた。そのなかで一本椋の樹の幹だけがほの白く闇のなかから浮かんで見えるのであった。 これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋の黒い影。銀色に浮かび出て・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――「ああ、そうですな」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 客はさる省の書記官に、奥村辰弥とて売出しの男、はからぬ病に公の暇を乞い、ようやく本に復したる後の身を養わんとて、今日しもこの梅屋に来たれるなり。燦爛かなる扮装と見事なる髭とは、帳場より亭主を飛び出さして、恭しき辞儀の下より最も眺望に富・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・詳しき説明は宇都宮時雄の君に請いたもうぞ手近なる。 いずこまで越したもうやとのわが問いは貴嬢を苦しめしだけまたかの君の笑壺に入りたるがごとし。かの君、大磯に一泊して明日は鎌倉まで引っ返しかしこにて両三日遊びたき願いに候えど――。われ、そ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・甲は書籍を拈繰って故意と何か捜している風を見せていたが、「有ったよ。」「ふん。」「真実に有ったよ。」「教えてくれ給え。」「実はやッと思い出したのだ。円とは……何だッたけナ……円とは無限に多数なる正多角形とか何とか言ッたッ・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・徳二郎はいつもの朗らかな声に引きかえ、この夜は小声で歌いながら静かに櫓をこいでいる。潮の落ちた時は沼とも思わるる入り江が高潮と月の光とでまるで様子が変わり、僕にはいつも見慣れた泥臭い入り江のような気がしなかった。南は山影暗くさかしまに映り、・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・何のために引いたか、そもそもまたこの濃い青い線をこれらの句の下に引いたのは、いつであるか。『七年は経過せり』と自分は思わず独語した。そうだ。そうだ! 七年は夢のごとくに過ぎた。三 自分が最も熱心にウォーズウォルスを読んだ・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 次の八畳の間の間の襖は故意と一枚開けてあるが、豆洋燈の火はその入口までも達かず、中は真闇。自分の寝ている六畳の間すら煤けた天井の影暗く被い、靄霧でもかかったように思われた。 妻のお政はすやすやと寝入り、その傍に二歳になる助がその顔・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・無造作で、精神的で、ささげる心の濃い娘を好むなら、そうした品性の青年なのだ。知性があって、質素で社会心のある娘を好むなら、そうした志向が青年にあるのだ。 娘に対して注文がないということは生への冷淡と、遅鈍のしるしでほめた話ではない。むし・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫