・・・ 更衣所で、男の着る作業服に着かえ、足先を麻の布でくるんで膝までの長靴をはいた。すっぽり作業帽をかぶって待っていると、自分も作業服にかえてドミトロフ君がやって来た。そして、「ホホー」と思わず笑い出した。私も笑った。というのは私は・・・ 宮本百合子 「ドン・バス炭坑区の「労働宮」」
・・・急に女子労務者が激増しても、その条件にふさわしい便所、食堂、更衣室その他の設備を整えることについて、政府はちっとも工場主を監督し激励するところがなかった。彼等の利潤追求におもねるばかりであった。 食糧は規格統制に従って配給されるようにな・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・近所には木村に好意を表していて、挨拶などをするものと、冷澹で知らない顔をしているものとがある。敵対の感じを持っているものはないらしい。 そこで木村はその挨拶をする人は、どんな心持でいるだろうかと推察して見る。先ず小説なぞを書くものは変人・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ヘルマン・バアルが旧い文芸の覗い処としている、急劇で、豊富で、変化のある行為の緊張なんというものと、差別はないではないか。そんなものの上に限って成り立つというのが、木村には分からないのである。 木村はさ程自信の強い男でもないが、その分か・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・人間が行動するとき、子のあるものと子のないものとの行為や精神には、非常な相違がある。この平凡な確実なことは、子のないときには理解ができても洞察の度合においてはるかに深度が違ってくる。この深度は作家の作品に影響しないはずがない。宇野浩二氏の『・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・だが、この眼前の事実のように、吸入がただ彼女の苦しみを続けるためばかりに役立っているのだと思うと、彼は彼女の生命を引きとめようとしている薬材よりも、今は、彼女の生命を縮めた漁場の魚に、始めて好意を持ちたくなった。しかし、医師は法医学に従って・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・私はある思想に拠って行為を非難する事があります。そうして時には自分の行為もまた同じように非難せられなければならない事を忘れています。 ある時私は友人と話している内に、だんだん他の人の悪口を言い出した事がありました。対象になったのは道徳的・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・世慣れた人のようによけいなお世辞などは一つも言わなかったが、しかし好意は素直に受け容れて感謝し、感嘆すべきものは素直に感嘆し、いかにも自然な態度であった。で、文人画をいくつも見せてもらっているうちに日が暮れ、晩餐を御馳走になって帰って来たの・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫