・・・ しかし万一もし盗んでいたとすると放下って置いては後が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行ることは得為すまいと考えたから尚お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。 どちらにしてもお徳が言った通り、彼処へ竹の木戸・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・』 慷慨に堪えざるもののごとく、『君を力にてわが望みは必ず遂げん。』熱き涙一滴、青年が頬をつたいしも乙女は知らず。ハンケチを口にくわえて歯をくいしばりぬ。しばし二人は言葉なく立てり。汽笛高く響きし時、青年は急ぎ乙女の手を堅く握り、言わん・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 北方の国境の冬は、夜が来るのが早かった。 にょきにょきと屋根が尖った、ブラゴウエシチェンスクの市街は、三時半にもう、デモンストレーションのような電灯の光芒に包まれていた。 郊外には闇が迫ってきた。 厚さ三尺ないし八尺、黒竜・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ やがて郊外の家についた。新しい二階建だった。電燈が室内に光っていた。田舎の取り散らしたヤチのない家とは全く様子が異っていた。おしかはつぎのあたった足袋をどこへぬいで置いていゝか迷った。「あの神戸で頼んだ行李は盗まれやせんのじゃろう・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・鷹を放つ者は鶴を獲たり鴻を獲たりして喜ぼうと思って郊外に出るのであるが、実は沼沢林藪の間を徐ろに行くその一歩一歩が何ともいえず楽しく喜ばしくて、歩に喜びを味わっているのである。何事でも目的を達し意を遂げるのばかりを楽しいと思う中は、まだまだ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 地下室に下りていって、外套箱を開けオーバーを出して着ながら、すぐに八時二十分の汽車で郊外の家へ帰ろうと思った。停車場は銀行から二町もなかった。自家も停車場の近所だったから、すぐ彼はうちへ帰れて読みかけの本が読めるのだった。その本は少し・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・今の住居の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった。 めずらしく心持ちのよい日が私には続くようになった。私は庭に向いた部屋の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 久しぶりで東京の郊外に冬籠りした。冬の日の光が屋内まで輝き満ちるようなことは三年の旅の間なかったことだ。この季節に、底青く開けた空を望み得るということも、めずらしい。私の側へ来てささやいて居たのは、たしかに武蔵野の「冬」だった。「・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・ 火災からひなんしたすべての人たちのうち、おそらく少くとも百二十万以上の人は、ようやくのことで、上にあげた、それぞれの広地や、郊外の野原なぞにたどりつき、飲むものも食べるものもなしに、一晩中、くらやみの地上におびえあつまっていたのです。・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている間に、食卓の上の古いグラフを開いて見て、そのなかに大震災の写真があった。一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。・・・ 太宰治 「ア、秋」
出典:青空文庫