・・・酒を呑みたいなら、友人、先輩と牛鍋つつきながら悲憤慷慨せよ。それも一週間に一度以上多くやっては、いけない。侘びしさに堪えよ。三日堪えて、侘びしかったら、そいつは病気だ。冷水摩擦をはじめよ。必ず腹巻きをしなければいけない。ひとから金を借りるな・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・健康ならばどんなにでも仕事の能率の上がる時でありながら気分が悪くて仕事が思うように出来ず、また郊外へ散歩にでも行けばどんなに愉快であろうと思うが、少し町を歩いただけで胃の工合が悪くなってどうにも歩行に堪えられなくなる。歩かなくても電車や汽車・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・舌や口蓋や鼻腔粘膜などよりももっと奥の方の咽喉の感覚で謂わば煙覚とでも名づくべきもののような気がする。そうするとこれは普通にいわゆる五官の外の第六官に数えるべきものかもしれない。してみると煙草をのまない人はのむ人に比べて一官分だけの感覚を棄・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・巻末に貼紙として添付された刷物には、末広君の講演の梗概と著者の Some After-thoughts が述べてある。この書の著者は米国在来のやり方の不備に飽き足らず末広君の色々な考えにすっかり共鳴したからのことと考えられるのである。同君帰・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・ 停車場まで来ると汽車はいま出たばかりで、次の田端止まりまでは一時間も待たなければならなかった。構外のWCへ行ってそこの低い柵越しに見ると、ちょうどその向こう側に一台の荷物車があって人夫が二人その上にあがって材木などを積み込んでいた。右・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・上あごの硬口蓋前半をぴったりふたをしてしまった心持ちはなんとも言えない不愉快なものである。しかし入れ歯のできあがった日に、試みに某レストランの食卓についてまず卓上の銀皿に盛られたナンキン豆をつまんでばりばりと音を立ててかみ砕いた瞬間に不思議・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・のことを書いた中に「硬口蓋」のことを思い違えて「軟口蓋」としてあったのを手紙で注意してくれた人があったが、こういうのは最も有難い読者である。 ずっと前の話であるが、『藪柑子集』中の「嵐」という小品の中に、港内に碇泊している船の帆柱に青い・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
・・・海洋に関する物理的事項の重なるものについては近頃出版した拙著『海の物理学』にその梗概を述べておいた。なお直接水産方面に関して、自分の知っているだけの僅少な例を挙げてみると、第一に漁具ことに網の研究である。各種の網糸の強弱弾性やその温度湿度に・・・ 寺田寅彦 「物理学の応用について」
・・・後者は器具の関係から学校に限られていたが、前者は当然校外にまでも伝播して行くべき性質のものであった。町はずれの草原や冬田の上で至るところにまね事の野球戦が流行した。ベースには蓆の切れ端やぞうきんで用が足りた。ボールがゴムまり、バットには手ご・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・街路は整頓され、洋風の建築は起こされ、郊外は四方に発展して、いたるところの山裾と海辺に、瀟洒な別荘や住宅が新緑の木立のなかに見出された。私はまた洗練された、しかしどれもこれも単純な味しかもたない料理をしばしば食べた。豪華な昔しの面影を止めた・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫