・・・「旦那。工場から電話です。今日あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云う・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・主人は近所の工場か何かへ勤めに行った留守だったと見え、造作の悪い家の中には赤児に乳房を含ませた細君、――彼の妹のほかに人かげはなかった。彼の妹は妹と云っても、彼よりもずっと大人じみていた。のみならず切れの長い目尻のほかはほとんど彼に似ていな・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・と云う口上である。そこでさすがの佐渡守も、あまりの事に呆れ返って、御用繁多を幸に、早速その場を外してしまった。――「よいか。」ここまで話して来て、佐渡守は、今更のように、苦い顔をした。 ――第一に、林右衛門の立ち退いた趣を、一門衆へ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・学者もしくは思想家の学説なり思想なりが労働者の運命を向上的方向に導いていってくれるものであるとの、いわば迷信を持っていた。そしてそれは一見そう見えたに違いない。なぜならば、実行に先立って議論が戦わされねばならぬ時期にあっては、労働者は極端に・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・朝毎の町のどさくさはあっても、工場の笛が鳴り、汽車ががたがた云って通り、人の叫声が鋭く聞えてはいても、なんとなく都会は半ば死しているように感じられる。 フレンチの向側の腰掛には、為事着を着た職工が二三人、寐惚けたような、鼠色の目をした、・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・人性本然の向上的意力が、かくのごとき休止の状態に陥ることいよいよ深くいよいよ動かすべからずなった時、人はこの社会を称して文明の域に達したという。一史家が鉄のごとき断案を下して、「文明は保守的なり」といったのは、よく這般のいわゆる文明を冷評し・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ ――松村さん、木戸まで急用―― いけ年を仕った、学芸記者が馴れない軽口の逃口上で、帽子を引浚うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くす・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・中に能の仕舞もまじって、序からざっと覚えてはいるが――狸の口上らしくなるから一々は記すまい。必要なのだけを言おう。 必要なのは――魚説法――に続く三番目に、一、茸、――鷺、玄庵――の曲である。 道の事はよくは知らない。しかし鷺の姿は・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・これが看板で、小屋の正面に、鼠の嫁入に担ぎそうな小さな駕籠の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額に蚯蚓のような横筋を畝らせながら、きょろきょろと、込合う群集を視めて控える……口上言がその出番に、「太夫いの、太夫・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 小店の障子に貼紙して、 (今日より昆布 ……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから漫歩というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、笊に柿が並べてある。これなら袂にも入ろう。「あり候」に挨拶の心得で、「おか・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
出典:青空文庫