・・・塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。「調子がええずら?」指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口で・・・ 太宰治 「美少女」
・・・ 突然明らかな光線が室に射したと思うと、扉のところに、西洋蝋燭を持った一人の男の姿が浮き彫りのように顕われた。その顔だ。肥った口髭のある酒保の顔だ。けれどその顔にはにこにこしたさっきの愛嬌はなく、まじめな蒼い暗い色が上っていた。黙って室・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 花を尋ねたり、墓を訪うたり、美しい夢ばかり見ていたあの頃の自分には、このイタリア人は暗い黄泉の闇に荒金を掘っている亡者か何かのように思われた。とにかく一種侮蔑の念を抑える訳に行かなかった。日露戦争の時分には何でもロシアの方に同情して日・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・トランペットやトロンボンのはげしい爆音の林立が斜めに交互する槍の行列のような光線で示されるところもあったようである。 なんだかちっともわからないようで、しかしなんだか妙におもしろいものである。これと非常によく似たものが他にどこかにあるよ・・・ 寺田寅彦 「踊る線条」
・・・このへんを歩いている人たちの大部分は、西洋人でも日本人でも、男でも女でも、みんなたった今そこで生命の泉を飲んできたような明るい活気のある顔をしている中で、この老婦人だけがあたかも黄泉の国からの孤客のように見えるのであった。「どうかするんじゃ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・窓より首さしのべて行手を見るに隧道眼前にようぜんとして向うの口銭のまわりほどに見ゆ。これを過ぐれば左に鳰の海蒼くして漣水色縮緬を延べたらんごとく、遠山模糊として水の果ても見えず。左に近く大津の町つらなりて、三井寺木立に見えかくれす。唐崎はあ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・どの家にも必ず付いている物干台が、小な菓子折でも並べたように見え、干してある赤い布や並べた鉢物の緑りが、光線の軟な薄曇の昼過ぎなどには、汚れた屋根と壁との間に驚くほど鮮かな色彩を輝かす。物干台から家の中に這入るべき窓の障子が開いている折には・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・春浪さんも唖々さんも共に斉しく黄泉の客となった。二十年の歳月は短きものではない。世の中も変れば従って人情も変った。 大正十五年八月の或夜、僕は晩涼を追いながら、震災後日に日にかわって行く銀座通の景況を見歩いた時、始めて尾張町の四辻に近い・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・このアチックに洩れて来る光線は皆頭の上から真直に這入る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に遮るものは微塵もない。カーライルは自分の経営でこの室を作った。作ってこれを書斎とした。書斎としてここに立籠った。立籠っ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・私は、光線は誰に属すべきものかという問題の方が、監獄にあっては、現在でも適切な命題と考える。 小さな葉、可愛らしい花、それは朝日を一面に受けて輝きわたっているではないか。 総べてのものは、よりよく生きようとする。ブルジョア、プロレタ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫