・・・吾妻橋、厩橋、両国橋の間、香油のような青い水が、大きな橋台の花崗石とれんがとをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。岸に近く、船宿の白い行灯をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線の音のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉の花にな・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・あの人はベタニヤのシモンの家で食事をなさっていたとき、あの村のマルタ奴の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、そ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千壺の香油を注いで、日にその膚を滑かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来る期はなかろう。 やがてわが部屋の戸帳を開きて、エレーンは壁に釣る長き衣を取り出す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・また毎年じぶんの土地から十石の香油さえ穫る長者のいちばん目の子も居たのです。 けれども学者のアラムハラドは小さなセララバアドという子がすきでした。この子が何か答えるときは学者のアラムハラドはどこか非常に遠くの方の凍ったように寂かな蒼黒い・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひたして洗い、その足を自分のゆたかに柔かな髪の毛で拭く、という限りなく思いやりにみたされた動作をしたろう。マグダラのマリアの物語の人間らしい美しさは、イエスと彼女・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・ 第三は、良人から与えられる金を当然の権利として、彼女の意のままに消費する群、つまり流行の偶像であり、香油と白粉の権化であり、良人の虚栄の仲介者となって居る婦人達。アメリカの物質的方面を恐ろしい程体現して、自分はいくらでも、素晴らしい着・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・連れの、香油をつけて分けた頭が見える。 睡っている連中が多い。それだもんで、喋っている一組の男の声だけがさっきから、車輪の響きや短い橋梁をわたるゴッという音の合間に私のところまで聞えて来るのである。「去年も五六人知ってる人が行ったで・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
出典:青空文庫