・・・二十日間も風呂に這入らない兵士達が、高粱稈のアンペラの上に毛布を拡げ、そこで雑魚寝をした。ある夕方浜田は、四五人と一緒に、軍服をぬがずに、その毛布にごろりと横たわっていた。支那人の××ばかりでなく、キキンの郷里から送られる親爺の手紙にも、慰・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・そこに、自然主義者としての花袋の面目もある訳だが、それだけに、戦場の戦闘開始前に於ける兵士や部隊の動きや、満洲の高粱のある曠野が、空想でない、しっかりした真実味に富んだ線の太い筆で描かれていながら、一つの戦地の断片に終って、全体としての戦争・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・サア話しが段々煮えて来た、ここへ香料を落して一ト花さかせる所だ。マア聞玉え、ナニ聞ていると、ソウカよしよし。ここで万物死生の大論を担ぎ出さなけりゃならないが、実は新聞なんぞにかけるような小さな話しではなし一朝一夕の座談に尽る事ではないから、・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・それですぐにそのドモクレスを呼んで、さまざまの珍らしいきれいな花や、香料や、音楽をそなえた、それはそれは、立派なお部屋にとおし、出来るかぎりのおいしいお料理や、価のたかい葡萄酒を出して、力いっぱい御馳走をしました。 ドモクレスは大喜びを・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・ひとつの、ささやかな興奮のあとに来る、倦怠、荒涼、やりきれない思いである。兄妹五人、一ことでも、ものを言い出せば、すぐに殴り合いでもはじまりそうな、険悪な気まずさに、閉口し切った。 母は、ひとり離れて坐って、兄妹五人の、それぞれの性格の・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・今見る三島は荒涼として、全く他人の町でした。此処にはもう、佐吉さんも居ない。妹さんも居ない。江島さんも居ないだろう。佐吉さんの店に毎日集って居た若者達も、今は分別くさい顔になり、女房を怒鳴ったりなどして居るのだろう。どこを歩いても昔の香が無・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、袂につっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出る。 もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうし・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・私は祖母に抱かれ、香料のさわやかな匂いに酔いながら、上空の烏の喧嘩を眺めていた。祖母は、あなや、と叫んで私を畳のうえに投げ飛ばした。ころげ落ちながら私は祖母の顔を見つめていた。祖母は下顎をはげしくふるわせ、二度も三度も真白い歯を打ち鳴らした・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒涼でもない、孤独の極でもない、智慧の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣でもない、悶悶でもない、厳粛でもない、恐怖でもない、刑罰でもない、憤怒でもない、諦観でもない・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・只今校了をひかえ、何かといそがしくしております。いずれ。匆々。相馬閏二。」 月日。「近頃、君は、妙に威張るようになったな。恥かしいと思えよ。いまさら他の連中なんかと比較しなさんな。お池の岩の上の亀の首みたいなところがあるぞ。稿料・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫