・・・彼の振分けの行李の中には、求馬左近甚太夫の三人の遺髪がはいっていた。 後談 寛文十一年の正月、雲州松江祥光院の墓所には、四基の石塔が建てられた。施主は緊く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・と云う、含み声の答があって、そっと障子を開けながら、入口の梱に膝をついたのは、憐しい十七八の娘です。成程これじゃ、泰さんが、「驚くな」と云ったのも、さらに不思議はありません。色の白い、鼻筋の透った、生際の美しい細面で、殊に眼が水々しい。――・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・そこでその日も母親が、本所界隈の小売店を見廻らせると云うのは口実で、実は気晴らしに遊んで来いと云わないばかり、紙入の中には小遣いの紙幣まで入れてくれましたから、ちょうど東両国に幼馴染があるのを幸、その泰さんと云うのを引張り出して、久しぶりに・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ その手拭が、娘時分に、踊のお温習に配ったのが、古行李の底かなにかに残っていたのだから、あわれですね。 千葉だそうです。千葉の町の大きな料理屋、万翠楼の姉娘が、今の主人の、その頃医学生だったのと間違って。……ただ、それだけではないら・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・その風采、高利を借りた覚えがあると、天窓から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。 店の透いた時は、そこらの小児をつかまえて、「あ、然じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺を寄せて、髯の上を撫で下げ撫で下げ、滑・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・……床に行李と二つばかり重ねた、あせた萌葱の風呂敷づつみの、真田紐で中結わえをしたのがあって、旅商人と見える中年の男が、ずッぷり床を背負って当たっていると、向い合いに、一人の、中年増の女中がちょいと浮腰で、膝をついて、手さきだけ炬燵に入れて・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠、焼焦だらけの畳の狼籍しているをくものもあった。古今の英雄の詩、美人の歌、聖賢の経典、碩儒の大著、人間の貴い脳漿を迸ばらした十万巻の書冊が一片業火に亡びて焦土となったを知らず顔に、渠・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・この『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野の或る旅宿に逗留していた時、行李に携えたこの一冊を再三再四反覆して初めて露西亜小説の偉大なるを驚嘆した。 私は詞藻の才が乏しかったから、初めから文人になれようともまたなろうとも思わな・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・薪や炭や、石炭を生産地から直接輸入して、その卸や、小売りをしているので、あるときは、駅に到着した荷物の上げ下ろしを監督したり、またリヤカーに積んで、小売り先へ運ぶこともあれば、日に幾たびとなく自転車につけて、得意先に届けなければならぬことも・・・ 小川未明 「空晴れて」
人間は、これまでものをいうことのできない動物に対して、彼等の世界を知ろうとするよりは、むしろ功利的にこれを利用するということのみ考えて来ました。言い換えれば、利益を中心にこれ等の動物を見、また取扱って来たのです。こうしたところには、彼・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
出典:青空文庫