・・・私たちはその特筆大書した定価の文字を新聞紙上の広告欄にも、書籍小売店の軒先にも、市中を練り歩く広告夫の背中にまで見つけた。この思い切った宣伝が廉価出版の気勢を添えて、最初の計画ではせいぜい二三万のものだろうと言われていたのが、いよいよ蓋をあ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・「あのただ今船頭が行李を持ってまいりましたよ」という。「あれは私のです」と言ったまま、やっぱりずんずんと書いて行く。「それはそうですけれど、どうせこちらへ運ばなければならないのでしょう?」「ええ」「ではこの押入には、下の・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・さまざま駄々をこねて居たようですが、どうにか落ち附き、三島の町はずれに小ぢんまりした家を持ち、兄さんの家の酒樽を店に並べ、酒の小売を始めたのです。二十歳の妹さんと二人で住んで居ました。私は、其の家へ行くつもりであったのです。佐吉さんから、手・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・お供と云えば唯国の役人を一人つれたきりで、いや最も屡々、自分で行李を持って歩いた。彼は、一エキュ以上する着物を着たことがない、一日に一文以上市場に払ったことがない、と自慢した。また、田舎にある自分の家は、外側に壁土をつけないものばかりだと、・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・尠くともこの間に少しも功利的の考えを加えて居らぬことです。せめてこのことだけでも貴下にかって貰いたいものです。――まだ、まだ、言いたいことがあるのですけれども、私の不文が貴下をして誤解させるのを恐れるのと、明日又かせがなければならぬ身の時間・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・これは、私の結婚式の時に用いただけで、家内は、ものものしく油紙に包んで行李の底に蔵している。家内は之を仙台平だと思っている。結婚式の時にはいていたのだから仙台平というものに違い無いと、独断している様子なのである。けれども、私は貧しくて、とて・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行李の中にでも押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがる恐れがある。もちろんこれは案内書や・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・しかし極端な自然科学的唯物論者におくめんなき所見を言わせれば、人間にとってなんらかの見地から有益であるものならば、それがその固有の功利的価値を最上に発揮されるような環境に置かれた場合には常に美である、と考えられるであろう。 この考えを実・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・そうしてその恐ろしさは単に落雷が危険であるからという功利的な理由からよりも、むしろ超自然的な威力が空一面に暴れ廻っているように感じられるためであった。中学校、高等学校で電気の学問を教わっても、この子供の頭に滲み込んだ恐ろしさはそう容易くは抜・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・これは言わば細胞組織の百貨店であって、後年のデパートメントストアの予想であり胚芽のようなものであったが、結局はやはり小売り商の集団的蜂窩あるいは珊瑚礁のようなものであったから、今日のような対小売り商の問題は起こらなくても済んだであろう。とに・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
出典:青空文庫