・・・五助は肩にかけた浅葱の嚢をおろしてその中から飯行李を出した。蓋をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。「おぬしは畜生じゃから、知・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・三斎公聞召され、某に仰せられ候はその方が申条一々もっとも至極せり、たとい香木は貴からずとも、この方が求め参れと申しつけたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以て物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやその方・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・松向寺殿聞召され、某に仰せられ候は、その方が申条一々もっとも至極なり、たとい香木は貴からずとも、この方が求め参れと申つけたる珍品に相違なければ、大切と心得候事当然なり、総て功利の念をもて物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやそ・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・天保四年は小売米百文に五合五勺になった。天明以後の飢饉年である。 医師が来て、三右衛門に手当をした。 親族が駆け附けた。蠣殻町の中邸から来たのは、三右衛門の女房と、伜宇平とである。宇平は十九歳になっている。宇平の姉りよは細川長門守興・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・石田は西の詰の間に這入って、床の間の前に往って、帽をそこに据えてある将校行李の上に置く。軍刀を床の間に横に置く。これを初て来た日に、お時婆あさんが床の壁に立て掛けて、叱られたのである。立てた物は倒れることがある。倒れれば刀が傷む。壁にも痍が・・・ 森鴎外 「鶏」
ロシアの都へ行く旅人は、国境を通る時に旅行券と行李とを厳密に調べられる。作者ヘルマン・バアルも俳優の一行とともに、がらんとした大きな室で自分たちの順番の来るのを待っていた。 霧、煙、ざわざわとした物音、荒々しい叫び声、息の詰まるよ・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・彼を束縛するものはただこの満足のための功利的節度のほかに何ものもない。 しかし人はこの物質的な世界に何の不足もなく安住することができるか。愛の歓喜にある時彼はその幸福の永遠性を望まないか。官能の悦楽のあとで彼はそのはかなさに苦しまないで・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
・・・芸術家は、ただ知識と功利的目的とによってのみ製作欲を起こし得るほど、いい加減なものではないのである。 私は偶像崇拝の正当な根拠を説いた。この視点から見て、千年以前の我々の祖先の文化がいかに心理的な深さを獲得するかは、きわめて興味ある問題・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫