・・・彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こそ/\と二階のKの室へあがって行く。……「……K君――」「どうぞ……・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 主催笹川の左側には、出版屋から、特に今晩の会の光栄を添えるために出席を乞うたという老大家のH先生がいる。その隣りにはモデルの一人で発起人となった倉富。右側にはやはりモデルの一人で発起人の佐々木と土井。その向側にはおもに新聞雑誌社から職・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 詩人は声はり上げて『わが心高原にあり』をうたい、『いざ去らば雪をいただく高峰』の句に至りて、その声ひときわ高く、その目は遠く連山の方を見やりて恋うるがごとく、憤るがごとく、肩に垂るる黒髪風にゆらぎ昇る旭に全身かがやけば、蒼空をかざして・・・ 国木田独歩 「星」
・・・ されどこれもまたわが心の迷いなるべきか、われ治子を恋うる心の深きがゆえなるべきか。かく思いつづけて青年が手はポケットの中なるある物を握りつめたり、その顔にはしばらく血の上るようなりしが、愚かなると言いし声は低ければ杖もて横の欄打ちし音・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 彼は、自分から癪に障るくらい哀れみを乞うような声を出してきいた。「あゝ。」 栗本の腕は、傷が癒えても、肉が刳り取られたあとの窪んだ醜い禿は消す訳に行かなそうだった。「福島はどうでしょうか、軍医殿。」「帰すさ。こんな骨膜・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 左様いう塾に就いて教を乞うのは、誰か紹介者が有ればそれで宜しいので、其の頃でも英学や数学の方の私塾はやや営業的で、規則書が有り、月謝束修の制度も整然と立って居たのですが、漢学の方などはまだ古風なもので、塾規が無いのではありませんが至っ・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ごく懇意でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚の中村の家を訪い、その細君に立話しをして、中村に吾家へ遊びに来てもらうことを請うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心配になるようなことではございますまい、何でもかえってお喜びになるよう・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・向うで人に憐を乞うようなものに、あべこべにこっちから憐を乞おうとしたとは。さて老人はその場に立っていながら、忽ち体を背後へ向けた。それは自分の顔に表れる感情の闘を青年に見せまいとしたのである。「ええ、この若い男の胸の苦しいのは、自分の胸の苦・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・警戒近きにあり。請う君これを識れと。君笑って諾す。すなわちその顛末を書し、もって巻端に弁ず。 明治十九年十二月田口卯吉 識 田口卯吉 「将来の日本」
・・・本国に書を送って、全体で僅か七アルペントばかりにしかならぬ自分の地処の管理を頼んでおいた小作人が、農具を奪って遁走したことを訴え、且つ、妻子が困っているといけないから帰国してその始末を致したいと、暇を乞うた。 老いたるカトンは、サルジニ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫