・・・ 彼女はあいにく二三日鼻や咽喉を悪くして、呼吸が苦しそうであった。腹工合もわるいと言って、一日何んにも食べずに中の間で寝ていたが、昨夜按摩を取ったあとで、いくらか気分がよくなったので、茶の間へ出てきて、思いだしたように御飯を食べていた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・まだ作業中のどの建物からもあらい呼吸づかいがきこえているが、三吉は橋の上を往復したり、鉄門のまえで、背の赤んぼと一緒に嫁や娘をまちかねている婆さんなぞにまじって、たっていたりする。手を背にくんで、鍵束の大きな木札をブラつかせながら、門の内側・・・ 徳永直 「白い道」
・・・近頃十九世紀の最も正直なる告白の詩人だといわれたポオル・ヴェルレエヌの詳伝を読み、Les sanglots longsDes violons De l'automne……「秋の胡弓の長き咽び泣き」という彼の有名な L・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・身体一杯の疱瘡が吹き出した時其鼻孔まで塞ってしまった。呼吸が逼迫して苦んだ。彼の母はそれを見兼ねて枳の実を拾って来て其塞った鼻の孔へ押し込んでは僅かに呼吸の途をつけてやった。それは霜が木の葉を蹴落す冬のことであった。枳の木は竹藪の中に在った・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。「白き挿毛に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。「主の名は?」「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知もしくは未知の或ものからわざわざ賛成同情の意義に富んだ書状を幾通も受取った。伊予にいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・どこかで遠く、胡弓をこするような低い音が、悲しく連続して聴えていた。それは大地震の来る一瞬前に、平常と少しも変らない町の様子を、どこかで一人が、不思議に怪しみながら見ているような、おそろしい不安を内容した予感であった。今、ちょっとしたはずみ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・そして呼吸も可成り整っているのだった。 私は彼女の足下近くへ、急に体から力が抜け出したように感じたので、しゃがんだ。「あまりひどいことをしないでね」と女はものを言った。その声は力なく、途切れ途切れではあったが、臨終の声と云うほどでも・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・家を移すに豆腐屋と酒屋の遠近をば念を入れて吟味し、あるいは近来の流行にて空気の良否など少しく詮索する様子なれども、肺に呼吸する空気を論ずるを知りて、子供の心に呼吸する風俗の空気を論ずる者あるを聞かず。世の中には宗旨を信心して未来を祈る者あり・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・この部屋の空気を呼吸すれば、まあ、どれだけの甘い苦痛を覚える事やら。わたしがこの世に生きていた間の生活の半分はラヴェンデルの草の優しい匂のように、この部屋の空気に籠っている。人の母の生涯というものは、悲が三分一で、後の二分は心配と責苦とであ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫