・・・ わずかに医学の初歩を学び得るときは、あるいは官途に奉職し、あるいは開業して病家に奔走し、奉職、開業、必ずしも医士の本意に非ざるも、糊口の道なきをいかんせん。口を糊せんとすれば、学を脩むるの閑なし、学を脩めんとすれば、口を糊するを得ず。・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・殊に政府の新陳変更するに当りて、前政府の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるがごときは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以て掩うべからざるの事・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・(右手扉の方へ行かんとする時、死あらわれ、徐に垂布を後にはねて戸口に立ちおる。ヴァイオリンは腰に下げ、弓を手に持ちいる。驚きてたじたじと下る主人を、死は徐まあ、何という気味の悪い事だろう。お前の絃の音はあれほど優しゅう聞えたのに、お前の姿を・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・そこで須利耶の奥さまは戸口にお立ちになりましたら童子はもう泣きやんで笑っていられましたとそんなことも申し伝えます。 またある時、須利耶さまは童子をつれて、馬市の中を通られましたら、一疋の仔馬が乳を呑んでおったと申します。黒い粗布を着た馬・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 涙をためて机の下に丸まって居ると、戸口の方に人声がし、一人の婦人が入って来た。まるで入口一杯になる程、縦にも横にも大きい人である。大変快活な顔付で、いかつい眼や口のまわりに微笑さえ浮べて居る。「あの娘は見つかりましたよ」と云う・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・しかし、どんな孤高の人が、輸送船の中へカタメテつみこまれなかったろうか。ジャングルの中にカタメテすてられた部隊から、一人はなれた人の飢餓と苦悩の運命の終焉が、カタマって餓死した人々の運命とその本質においてどうちがったろう? 最悪の運命の瞬間・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・これらの作品の題材の特異性、特異性を活かすにふさわしい陰影の濃い粘りづよい執拗な筆致等は、主人公の良心の表現においても、当時の文壇的風潮をなしていた行為性、逆流の中に突立つ身構えへの憧憬、ニイチェ的な孤高、心理追求、ドストイェフスキー的なる・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・祖父母に生活能力がなくて、みじめな貧しさのなかで孫が働き、辛うじて糊口をつないだ。世間には男の児だとそういう境遇のめぐり合わせにおかれるものも決して一人や二人ではないだろうと思う。 若い肉体に重すぎる生活の荷にひしがれて病気を発すること・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・ この時突然、店の庭先で太鼓がとどろいた、とんと物にかまわぬ人のほかは大方、跳り立って、戸口や窓のところに駆けて出た、口の中をもぐもぐさしたまま、手にナフキンを持ったままで。 役所の令丁がその太鼓を打ってしまったと思うと、キョトキョ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。 津崎の家では往生院を菩提所にしていたが、往生院は上のご由緒のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所ときめたのである。五助が墓地にはいって・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫