・・・私はあなたを、少しの駈引きも無く、厳粛に根強く、尊敬しているつもりでありますけれども、それでも、先生、とお呼びする事に就いては、たいへんこだわりを感じます。他意はございません。ただ、気持を、いつもあなたの近くに置きたいからです。私は肉親を捨・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・あれこれと考えれば考えるほど青扇と僕との体臭がからまり、反射し合っているようで、加速度的に僕は彼にこだわりはじめたのであった。青扇はいまに傑作を書くだろうか。僕は彼の渡り鳥の小説にたいへんな興味を持ちはじめたのである。南天燭を植木屋に言いつ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・色慾のつつしむべきも、さる事ながら、人間あんまり金銭に意地汚くこだわり、モトを取る事ばかりあせっていても、これもまた、結果がどうもよくないようだ。 田島は、キヌ子を憎むあまりに、ほとんど人間ばなれのしたケチな卑しい計画を立て、果して、死・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・と私が呼ぶと、シゲちゃんは、こだわり無く笑った。私は少し助かったような気がした。この子だけは、私の過去を知るまい。 家へはいった。中畑さんと北さんは、すぐに二階の兄の部屋へ行ってしまった。私は妻子と共に仏間へ行って、仏さまを拝んで、それ・・・ 太宰治 「故郷」
・・・なんだかこれでは自分がベデカの編者それ自身になってその校正でもしているような気がし、そしてその窓が不思議なこだわりの網を私のあたまの上に投げかけるように思われて来た。室に付随した歴史や故実などはベデカによらなければ全くわからないが、窓のなが・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ しかし、また、実際、特別緊急な捜しものをする場合には、心にこだわりがあって、自由な観察と認識の能力がいくぶん減退しているためもたしかにいくぶんかはあるらしい。 これとはまた少し趣のちがった「捜すものは無い」場合がある。 大きな・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・人にこだわりながら花見をして帰ると頭が疲れてがっかりしたものである。家族連れで出かけるとその上に家族にこだわるので疲れ方が一層はげしかった。それだのに、どうしたことか、近頃はそれほど人にこだわらないで花が見られるようになったらしい。これが全・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ちょっとそう云って聞いてみたいような気がした、と同時に、それが自然に何のこだわりもなく云えるまでに到達していない自分を認識することが出来たのであった。 明治座前で停ると少女は果して降りて行く、そのあとから自分も降りながら背後から見ると、・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・そのためにこの文明の利器に親炙する好機会をみすみす取り逃がしつつ、そんなこだわりなしにおもしろそうに聞いている田舎の人たちをうらやまなければならなかった。このような「薄志弱行」はいつまでも私の生涯に付きまとって絶えず私に「損」をさせている。・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・なぜこれほどおもしろいのかよくわからないがただどちらもあらゆる創作の中で最も作為の跡の少ないものであって、こだわりのない叙述の奥に隠れた純真なものがあらゆる批判や估価を超越して直接に人を動かすのではないかと思う。そしてそれは死生の境に出入す・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
出典:青空文庫