・・・これこそ実際天縁が、熟したと言う外はありません。私は取る物も取りあえず、金きんしょうにある王氏の第宅へ、秋山を見に出かけて行きました。 今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡丹が、玉欄の外に咲き誇った、風のない初夏の午過ぎです・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・小さい笑窪のある両頬なども熟した杏のようにまるまるしている。……… 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは何と云っても「初ちゃん」である。「初ちゃん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何かへ通っていた。が、土曜から・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・葡萄の実が熟していたのですから。天気は冬が来る前の秋によくあるように空の奥の奥まで見すかされそうに霽れわたった日でした。僕達は先生と一緒に弁当をたべましたが、その楽しみな弁当の最中でも僕の心はなんだか落着かないで、その日の空とはうらはらに暗・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・うな握太な、短い杖をな、唇へあてて手をその上へ重ねて、あれじゃあ持重りがするだろう、鼻を乗せて、気だるそうな、退屈らしい、呼吸づかいも切なそうで、病後り見たような、およそ何だ、身体中の精分が不残集って熟したような鼻ッつきだ。そして背を屈めて・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・東に向けて臥床設けし、枕頭なる皿のなかに、蜜柑と熟したる葡萄と装りたり。枕をば高くしつ。病める人は頭埋めて、小やかにぞ臥したりける。 思いしよりなお瘠せたり。頬のあたり太く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の瞼に血の色染めて、うつくしさ、気高・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ 妻の母は心配そうな顔をしているが、僕のことは何にも尋ねないで、孫どもが僕の留守中にいたずらであったことを語り、庭のいちじくが熟しかけたので、取りたがって、見ていないうちに木のぼりを初め、途中から落ッこちたことなどを言ッつけた。子供は二・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・富山の奥で五人の大の男を手玉に取った九歳の親兵衛の名は桃太郎や金太郎よりも熟していた。したがってホントウに通して読んだのは十二、三歳からだろうがそれより以前から拾い読みにポツポツ読んでいた。十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ が、二葉亭のいうのは恐らくこの意味ではないので、二葉亭は能く西欧文人の生涯、殊に露国の真率かつ痛烈なる文人生涯に熟していたが、それ以上に東洋の軽浮な、空虚な、ヴォラプチュアスな、廃頽した文学を能く知りかつその気分に襯染していた。一言す・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・ ある夏のこと、ちょうど休暇が終わりかけるころから、年郎くんの家のいちじゅくは、たくさん実を結んで、それは紫色に熟して、見るからにおいしそうだったのです。 ちょうど遊びにきた吉雄くんは、これを見て、びっくりしました。「これは、い・・・ 小川未明 「いちじゅくの木」
・・・いろいろな木の実が紅く熟し、それが落ちてしまうと雪が降りました。そして、しばらくたつとまた、若草が芽をふいて、陽炎のたつ、春がめぐってきたのであります。 お城の内には、花が咲き乱れました。みつばちは太陽の上る前から、花の周囲に集まって、・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
出典:青空文庫