・・・私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言うものが残っている。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くな・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・でパチンとやってみたくて堪らなかった。これは残酷な空想だろうか? 否。まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆力によるのである。私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の耳を、話をしながら、しきりに抓っていた光景を忘れるこ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・「御嶽教会×××作之」と。 茅屋根の雪は鹿子斑になった。立ちのぼる蒸気は毎日弱ってゆく。 月がいいのである晩行一は戸外を歩いた。地形がいい工合に傾斜を作っている原っぱで、スキー装束をした男が二人、月光を浴びながらかわるがわる滑走・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 折からこれも手拭を提げて、ゆるゆる二階を下り来るは、先ほど見たる布袋のその人、登りかけたる乙女は振り仰ぎて、おや父様、またお入浴りなさるの。幕なしねえ。と罪なげに笑う。笑顔の匂いは言わん方なし。 親子、国色、東京のもの、と辰弥は胸・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 十幾本の鉤を凧糸につけて、その根を一本にまとめて、これを栗の木の幹に結び、これでよしと、四郎と二人が思わず星影寒き大空の一方を望んだ時の心持ちはいつまでも忘れる事ができません。 もちろん雁のつれるわけがないので、その後二晩ばかりや・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ この墓が七年前に死んだ「並木善兵衛之墓」である、「杉の杜の髯」の安眠所である。 この日、兄の貫一その他の人々は私塾設立の着手に取りかかり、片山という家の道場を借りて教場にあてる事にした。この道場というは四間と五間の板間で、その以前・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・今さらに何かなげかん打ちなびき心はきみによりにしものを これは万葉にある歌だがいい歌だと思う。 こんな気持は恋愛から入った夫婦でなくては生じないだろう。 性交は夫婦でなくてもできるが、子どもを育てるということは人間の・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 愛読した本と、作家は、まだほかに多々あるが紙数の都合でこれだけとする。 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・そこに描かれているものは、個人の苦痛、数多の犠牲、戦争の悲惨、それから、是等に反対する個人の気持や、人道的精神等である。 手近かな例を二三挙げてみる。 田山花袋の「一兵卒」は、日露戦争に、満洲で脚気のために入院した兵卒が、病院の不潔・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
出典:青空文庫