序 これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両膝・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・基線道路と名づけられた場内の公道だったけれども畦道をやや広くしたくらいのもので、畑から抛り出された石ころの間なぞに、酸漿の実が赤くなってぶら下がったり、轍にかけられた蕗の葉がどす黒く破れて泥にまみれたりしていた。彼は野生になったティモシーの・・・ 有島武郎 「親子」
・・・十七八のころから二三年の間である。そのころ私には、詩のほかに何ものもなかった。朝から晩まで何とも知れぬものにあこがれている心持は、ただ詩を作るということによっていくぶん発表の路を得ていた。そうしてその心持のほかに私は何ももっていなかった。―・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ あんころ餅 松任のついでなれば、そこに名物を云うべし。餅あり、あんころと云う。城下金沢より約三里、第一の建場にて、両側の茶店軒を並べ、件のあんころ餅を鬻ぐ……伊勢に名高き、赤福餅、草津のおなじ姥ヶ餅、相似たる類のも・・・ 泉鏡花 「一景話題」
一「満蔵満蔵、省作省作、そとはまっぴかりだよ。さあさあ起きるだ起きるだ。向こうや隣でや、もう一仕事したころだわ。こん天気のえいのん朝寝していてどうするだい。省作省作、さあさあ」 表座敷の雨戸をがらがらあ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと気に入った。 僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになかった。隣りの料理屋の地面から、丈の高いいちじくが繁り立って、僕の二階の家根を上までも越している・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・然るに喜兵衛が野口家の後見となって身分が定ってから、故郷の三ヶ谷に残した子の十一歳となったを幸手に引取ったところが、継の母との折合が面白くなくて間もなく江戸へ逃出し、親の縁を手頼に馬喰町の其地此地を放浪いて働いていた。その中に同じ故郷人が小・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
のぶ子という、かわいらしい少女がありました。「のぶ子や、おまえが、五つ六つのころ、かわいがってくださった、お姉さんの顔を忘れてしまったの?」と、お母さまがいわれると、のぶ子は、なんとなく悲しくなりました。 月日は、ちょうど、う・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・私のようなことを言って救いを乞いに廻る者も希しくないところから、また例のぐらいで土地の者は対手にしないのだ。 私は途方に晦れながら、それでもブラブラと当もなしに町を歩いた。町外れの海に臨んだ突端しに、名高い八幡宮がある。そこの高い石段を・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・それかあらぬか、父は生れたばかりの私の顔をそわそわと覗きこんで、色の白いところ、鼻筋の通ったところ、受け口の気味など、母親似のところばかり探して、何となく苦りきっていたといいます。父は高座へ上ればすぐ自分の顔の色のことを言うくらい色黒で、鼻・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫