・・・が、今はいつのまにかどの穂も同じように狐色に変り、穂先ごとに滴をやどしていた。「さあ、仕事でもするかな。」 Mは長ながと寝ころんだまま、糊の強い宿の湯帷子の袖に近眼鏡の玉を拭っていた。仕事と言うのは僕等の雑誌へ毎月何か書かなければな・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・そうすると紆波が来る度ごとにMは脊延びをしなければならないほどでした。それがまた面白そうなので私たちも段々深味に進んでゆきました。そして私たちはとうとう波のない時には腰位まで水につかるほどの深味に出てしまいました。そこまで行くと波が来たらた・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・路には処々、葉の落ちた雑樹が、乏しい粗朶のごとく疎に散らかって見えた。「こういう時、こんな処へは岡沙魚というのが出て遊ぶ」 と渠は言った。「岡沙魚ってなんだろう」と私が聞いた。「陸に棲む沙魚なんです。蘆の根から這い上がって、・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・君のごとき境遇にある人の目から見て、僕のごとき者の内面は観察も想像およぶはずのものであるまい。いかな明敏な人でも、君と僕だけ境遇が違っては、互いに心裏をくまなくあい解するなどいうことはついに不可能事であろうと思うのである。 むろん僕の心・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・あの狭い練兵場で、毎日、毎日、朝から晩まで、立てとか、すわれとか、百メートルとか、千メートルとか、云うて、戦争の真似をしとるんかと思うと、おかしうもなるし、あほらしうもなるし、丸で子供のままごとや。えらそうにして聨隊の門を出て来る士官はんを・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・随分いやな頼まれごとでも快く承諾されたのは一再でない。或る時などは、私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだ。若い元気の好い文学者へでも、こんな事を頼もうものなら、それこそムキになって怒られようが、先生は別に嫌な顔などはせられなかった。ただ「・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
曠野と湿潤なき地とは楽しみ、沙漠は歓びて番紅のごとくに咲かん、盛に咲きて歓ばん、喜びかつ歌わん、レバノンの栄えはこれに与えられん、カルメルとシャロンの美しきとはこれに授けられん、彼らはエホバの栄を見ん、我・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
だんだん寒くなるので、義雄さんのお母さんは精を出して、お仕事をなさっていました。「きょうのうちに、綿をいれてしまいたいものだ。」と、ひとりごとをしながら、針を持つ手を動かしていられました。 秋も深くなって、日脚は短くなりました・・・ 小川未明 「赤い実」
・・・広い会所の中は揉合うばかりの群衆で、相場の呼声ごとに場内は色めきたつ。中にはまた首でも縊りそうな顔をして、冷たい壁に悄り靠れている者もある。私もそういう人々と並んで、さしあたり今夜の寝る所を考えた。場内の熱狂した群衆は、私の姿など目にも留め・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・女はヒステリックになにごとか叫んでいた。 夕闇が私の部屋に流れ込んで来た。いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なので、あきれていると、女の歌声もまじり出した。私はますますあきれた。そこへ夕飯がはこばれて来た。 電燈・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫