・・・ 俺のように年寄った母親が有うも知ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生の小舎の戸口に彳み、遥の空を眺ては、命の綱のかせぎにんは戻らぬか、愛し我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。 さておれの身は如何なる事ぞ? おれも亦まツこの通・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ Kは毛布を敷いて、空気枕の上に執筆に疲れた頭をやすめているか、でないとひとりでトランプを切って占いごとをしている。「この暑いのに……」 Kは斯う警戒する風もなく、笑顔を見せて迎えて呉れると、彼は初めてほっとした安心した気持にな・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・その巌丈な石の壁は豪雨のたびごとに汎濫する溪の水を支えとめるためで、その壁に刳り抜かれた溪ぎわへの一つの出口がまた牢門そっくりなのであった。昼間その温泉に涵りながら「牢門」のそとを眺めていると、明るい日光の下で白く白く高まっている瀬のたぎり・・・ 梶井基次郎 「温泉」
さて、明治の御代もいや栄えて、あの時分はおもしろかったなどと、学校時代の事を語り合う事のできる紳士がたくさんできました。 落ち合うごとに、いろいろの話が出ます。何度となく繰り返されます。繰り返しても繰り返しても飽くを知・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・やんごとなき仏にならせわがために死にしこころのそのままにして これは自分の妻をあることで、苦しめ抜いたある真宗信徒の歌である。 夫婦愛というものは少しの蹉跌があったからといって滅びるようなものではつまらない。初めは恋愛か・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ まず、食事たびごとに飯をたいてみた。なにしろ、外米はつめたくなると一そうパラつくのである。 前夜から洗っておいて、水加減を多くし、トロ火でやわらかくそしてふきこぼれないようにたいてみた。 小豆飯にたいてみた。 食塩をいれて・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・この正賓はいつも廷珸と互に所有の骨董を取易えごとをしたり、売買の世話をしたりさせたりして、そして面白がっていた。この男が自分の倪雲林の山水一幅、すばらしい上出来なのを廷珸に託して売ってもらおうとしていた。価は百二十金で、ちょっとはないほどの・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ ことごとにこんな自分が情けなく思った。彼は戻りかけた。しかしもう気持が、寄れないところへ行っていた。彼は別な、公園の道に出た。そこは市役所の裏で暗かった。道の両側には高い樹が並んで立っており、それが上の方で両方枝を交えていた。そして、まだ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・宿屋の庭のままごとに、松葉を魚の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を楽しませた。兄たちの学校も近かったから、海老茶色の小娘らしい袴に学校用の鞄で、末子をもその宿屋から通わせた。にわかに夕立でも来そうな空の日には、私は娘の雨傘を小わきにか・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・そして、しばらくの間なにごともなく、暮していました。 ウイリイは厩のそばに、部屋をもらっていました。夕方仕事がすみますと、ウイリイはその部屋へかえって、いつも窓をぴっしりしめて、例の三本の羽根をとり出しました。羽根は、お日さまのように、・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
出典:青空文庫