・・・軸白くして薄紅の色さしたると、樺色なると、また黄なると、三ツ五ツはあらむ、芝茸はわれ取って捨てぬ。最も数多く獲たるは紅茸なり。 こは山蔭の土の色鼠に、朽葉黒かりし小暗きなかに、まわり一抱もありたらむ榎の株を取巻きて濡色の紅したたるばかり・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・――あの時、雀の親子の情に、いとしさを知って以来、申出るほどの、さしたる御馳走でもないけれど、お飯粒の少々は毎日欠かさず撒いて置く。たとえば旅行をする時でも、……「火の用心」と、「雀君を頼むよ」……だけは、留守へ言って置くくらいだが、さて、・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・その頃はマダ右眼の失明がさしたる障碍を与えなかったらしいのは、例えば岩崎文庫所蔵の未刊藁本『禽鏡』の失明の翌年の天保五年秋と明記した自筆の識語を見ても解る。筆力が雄健で毫も窘渋の痕が見えないのは右眼の失明が何ら累をなさなかったのであろう。・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・二葉亭の対露問題は多年の深い研究とした夙昔の抱負であったし、西伯利から満洲を放浪し、北京では中心舞台に較や乗出していたし、実行家としてこそさしたる手腕を示しもせず、また手腕がなかったかも知れぬが、頭の中の経綸は決して空疎でなかった。もし小説・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・東京のけつねうどんは不味うてたべられへん、大阪のほんまのけつねうどんをたべさしたるねんと、坂田は言い、照枝も両親が猪飼野でうどん屋をしていたから、随分乗気になった。照枝は東京の子供たちの歯切れの良い言葉がいかにも利溌な子供らしく聴えて以来、・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・この時傘をさしたる一人の男、線路のそばに立っていたのが主人の窓をあけたので、ソッと避けて家の壁に身を寄せた。それを主人はちらと見て、『何を言っても命あっての物種だ、』と大きな声で独言を初めた、『どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろう・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・酒の廻りしため面に紅色さしたるが、一体醜からぬ上年齢も葉桜の匂無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻より上りて婀娜ッぽいいい年増なり。「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんなら実の事を云おうか、実はナ。「アアどうするッてエの。・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・乙、半ば飲みさしたる麦酒の小瓶を前に置き、絵入雑誌を読みいる。後対話の間に、他の雑誌と取り替うることあり。甲。アメリイさん。今晩は。クリスマスの晩だのに、そんな風に一人で坐っているところを見ると、まるで男の独者のようね。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・気まずい事の起らぬうちに早く引き上げましょう、と私は北さんと前もって打ち合せをして置いたのである。さしたる失敗も無く、謂わば和気藹々裡に、私たちはハイヤアに乗った。北さん、中畑さん、私、それから母。嫂や英治さんの優しいすすめに依って母も、私・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・そのかわり、バナナを一日に二十本ずつ、妻楊枝、日に三十本は確実、尖端をしゅろの葉のごとくちぢに噛みくだいて、所かまわず吐きちらしてあるいて居られる由、また、さしたる用事もなきに、床より抜け出て、うろついてあるいて、電燈の笠に頭をぶっつけ、三・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫