・・・ 何か物音が為たと思うと眼が覚めた。さては盗賊と半ば身体を起してきょろきょろと四辺を見廻したが、森としてその様子もない。夢であったか現であったか、頭が錯乱しているので判然しない。 言うに言われぬ恐怖さが身内に漲ぎってどうしてもそのま・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 寄居を出離れて行くこと少時にして、水の流るるとおぼしき音の耳に入れば、さては道と川と相近づきたるかと疑いつつ行くに、果して左の方に水の光り見えたり。問わずして荒川とは知るものから、昨日と今日とは見どころ異れば同じ流れながら如何なるさま・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある。子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮す・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・日の崇り今し方明いて参りましたと着更えのままなる華美姿名は実の賓のお夏が涼しい眼元に俊雄はちくと気を留めしも小春ある手前格別の意味もなかりしにふとその後俊雄の耳へ小春は野々宮大尽最愛の持物と聞えしよりさては小春も尾のある狐欺されたかと疑ぐる・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。 おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・や、臭い。さては、お前、やったな。いや、やらかした。どだいお前は失敬じゃないか。いやしくも軍人の鼻先で、屁をたれるとは非常識きわまるじゃないか。おれはこれでも神経質なんだ。鼻先でケツネのへなどやらかされて、とても平気では居られねえ」などそれ・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・むかしの佳き人たちの恋物語、あるいは、とくべつに楽しかった御旅行の追憶、さては、先生御自身のきよらかなるロマンス、等々、病床の高橋君に書き送る形式にて、四枚、月末までにおねがい申しあげます。大阪サロン編輯部、春田一男。太宰治様。」「君の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・九つの歳父母に従うて東海道を下りし時こゝの水楼にはやの塩焼の骨と肉とが面白く離るゝを面白がりし事など思い出してはこの頃の吾なつかしく、父母の老い給いぬる今悲しかり。さては白湾子と共に名古屋に遊びし帰途伊勢を経て雪夜こゝに一夜を明かせし淋しさ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・魔除鼠除けの呪文、さては唐竹割の術より小よりで箸を切る伝まで十銭のところ三銭までに勉強して教える男の武者修行めきたるなど。ちと人が悪いようなれども一切只にて拝見したる報いは覿面、腹にわかに痛み出して一歩もあゆみ難くなれり。近きベンチへ腰をか・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ 杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りあるく男の頓狂な声。さてはまた長雨の晴れた昼すぎにきく竿竹売や、蝙蝠傘つくろい直しの声。それらはいずれもわたくしが学生のころ東京の山の手の町で聞き馴れ、そしていつか年・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫