・・・切りたほされし杉の木の 静かにふして淡く打ち笑む白々と小石のみなる河床に 菜の花咲きて春の日の舞ふ水車桜の小枝たわめつゝ ゆるくまはれり小春日の村白壁の山家に桃の影浮きて 胡蝶は舞はで・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ 三日の夕方、東交代表河野争議部長が、下唇を突出し気味に背中を堅くして椅子にかけている山下局長に向って整理案撤回要求書を差し出しているところを撮った写真が出た。でっぷり太った角がりでチョビ髭を生やした河野が詰襟服姿で起立し、要求書の両端・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・どういう道順であったか、上野の山下へ出た。そこで自働電話を父へかけた。何時までならいると父が云ったので、私は、黒リボンを帯留めにくくりつけるひまのなかった例の時計を電話機の前の棚のところへ出してのせ、それを眺めながら、だって父様すこし無理よ・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・立ったまま、「きょうお姉様に上野の広小路と山下の間で会った」とハアハア笑った。「いやよ、何云ってるのさ」「だって、バスにのっているすぐとなりの男のひとが、ほらあれって云ってるんだもの」「見たの?」「ううん、こんでいて・・・ 宮本百合子 「似たひと」
・・・ 何卒よろしくおつたえ下さいませ 八日百合子 高根包子様 一九四七年五月二十七日〔岡山市内山下四番地 岡山県第一岡山中学校政経部宛 駒込林町より〕一、民主的な社会生活の方法を身につける、ということが最も重・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・ 戦争の惨禍と、人民生活の犠牲。なかでも弱い女の蒙っている打撃の致命的な深刻さを痛切に理解し、一刻も早い適切な処置を思うなら、戦犯で潰れた反動政党へ、どうして女が入られよう。家庭を奪い、愛する男たちを殺し、傷け、今日の日本をもたらした、・・・ 宮本百合子 「人間の道義」
・・・女詩人深尾須磨子はイタリーへ行って、ムッソリーニとファシズムの讚歌を歌った。私は目白の家で殆ど毎日巣鴨へ面会にゆきながら活ぱつに執筆した。表現の許される限りで、戦争が生活を破壊して、小学校の上級生までが勤労動員させられはじめた日本の現実を描・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・を書き、綿々たる霊の讚歌「抒情歌」を書き、決して直木三十五のように商売半分のファッショ風なたんかなどを切ってはいない。 まるで正反対である。「水晶幻想」時代には近代のブルジョア・インテリゲンチアらしく、科学知識への興味を自慰的に示してい・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
・・・同時に一方では、これまで満州ばかりを戦場にしていた日本人すべてが、はじめてわが顔をやく焔として近代武器による戦争の惨禍を実感した。そして、戦争のこわさを身にしみている。 この入りくんだ社会感情のいきさつこそが、今日、わたしたちを渦にまき・・・ 宮本百合子 「平和への荷役」
・・・彼女はさっきまで子供外套の裁断をしていたのだ。産科医の注意で、彼女は一日のうちに幾度かそうやって、かけていれば立って歩く、たっていればかける、或は体を長くのばして横わる。いろいろ姿勢をかえる必要があるのであった。それが書き物机にもなるし食卓・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫