・・・今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乗リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・…… この話は、たちまち幾百里の山河を隔てた、京畿の地まで喧伝された。それから山城の貉が化ける。近江の貉が化ける。ついには同属の狸までも化け始めて、徳川時代になると、佐渡の団三郎と云う、貉とも狸ともつかない先生が出て、海の向うにいる越前・・・ 芥川竜之介 「貉」
・・・心きようじつの如し 阿誰貞節凜として秋霜 也た知る泉下遺憾無きを ひつぎを舁ぐの孤児戦場に趁く 蟇田素藤南面孤を称す是れ盗魁 匹として蜃気楼堂を吐くが如し 百年の艸木腥丘を余す 数里の山河劫灰に付す 敗卒庭に聚まる真に幻矣 ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 実にそうである、豊吉の精根は枯れていたのである。かれは今、堪ゆべからざる疲労を感じた。私塾の設立! かれはこの言葉のうち、何らの弾力あるものを感じなくなった。 山河月色、昔のままである。昔の知人の幾人かはこの墓地に眠っている。豊吉・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・……霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士も、かくやと思ひ遣る。さま/″\思ひつづけ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・再び故郷の山河を見ることの出来るのはいつであろうか。母に、もしもの事があった時には、或いは、もういちど故郷を、こんどは、ゆっくり見ることが出来るかも知れないが、それもまた、つらい話だ、というような意味の事を書いて置いた筈であるが、その原稿を・・・ 太宰治 「故郷」
・・・草田ノ家ヘ、カエリナサイ。 スミマセン。トニカク、カエリナサイ。 カエレナイ。ナゼ? カエルシカク、ナイ。草田サンガ、マッテル。 ウソ。ホント。 カエレナイノデス。ワタシ、アヤマチシタ。バカダ。コ・・・ 太宰治 「水仙」
・・・ふるさとの山河が浮ぶのである。私は、もう十年も故郷を見ない。八年まえの冬、考えると、あの頃も苦しかったが、私は青森の検事局から呼ばれて、一人こっそり上野から、青森行の急行列車に乗り込んだことがある。浅虫温泉の近くで夜が明け、雪がちらちら降っ・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・ソノホカニモ水死人、サマザマノスガタデ考エテイルソウデス、白イ浴衣着タ叔父サンガ、フトコロニ石ヲ一杯イレテ、ヤハリ海ノ底、砂地ヘドッカトアグラカイテ威張ッテイタ。沈没シタ汽船ノ客室ノ、扉ヲアケタラ、五人ノ死人ガ、スット奥カラ出テ来タソウデス・・・ 太宰治 「創生記」
・・・科学者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、芸術家の描こうとするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって草木山河はこれを表わす言葉である。しかしそのある物は作家だけの主観に存するものでなくてある程度までは他人にも普遍的に存する・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
出典:青空文庫