・・・が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、物思いに沈んでいるばかりであった。 何週間かは経過した。 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・産前、産後、婦人病一切によろしい。――これは僕の友だちに聞いた能書きだがね、そいつがやり始めた缶詰だよ。」 田宮は唇を嘗めまわしては、彼等二人を見比べていた。「食えるかい、お前、膃肭獣なんぞが?」 お蓮は牧野にこう云われても、無・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・その上顔は美しい牙彫で、しかも唇には珊瑚のような一点の朱まで加えてある。…… 私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの黒衣聖母の美しい顔を眺めていた。が、眺めている内に、何か怪しい表情が、象牙の顔のどこだかに、漂っているような心もちがし・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・大名と呼ばれた封建時代の貴族たちが、黄金の十字架を胸に懸けて、パアテル・ノステルを口にした日本を、――貴族の夫人たちが、珊瑚の念珠を爪繰って、毘留善麻利耶の前に跪いた日本を、その彼が訪れなかったと云う筈はない。更に平凡な云い方をすれば、当時・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・ 三五 久井田卯之助 久井田という文字は違っているかもしれない。僕はただ彼のことをヒサイダさんと称していた。彼は僕の実家にいる牛乳配達の一人だった。同時にまた今日ほどたくさんいない社会主義者の一人だった。僕はこのヒサ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ただ、黄昏と共に身辺を去来して、そが珊瑚の念珠と、象牙に似たる手頸とを、えもならず美しき幻の如く眺めしのみ。もしわれにして、汝ら沙門の恐るる如き、兇険無道の悪魔ならんか、夫人は必ず汝の前に懺悔の涙をそそがんより、速に不義の快楽に耽って、堕獄・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・薄紅い影、青い隈取り、水晶のような可愛い目、珊瑚の玉は唇よ。揃って、すっ、はらりと、すっ、袖をば、裳をば、碧に靡かし、紫に颯と捌く、薄紅を飜す。 笛が聞える、鼓が鳴る。ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン、おひゃら、ひゅうい、チテン、テン、・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・……手につまさぐるのは、真紅の茨の実で、その連る紅玉が、手首に珊瑚の珠数に見えた。「ほん、ほん。こなたは、これ。(や、爺と、姉さんと二人して、潟に放いて、放生会をさっしゃりたそうな人相じゃがいの、ほん、ほん。おはは。」 と笑いながら・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・山吹は黄なる貝を刻んだようで、つつじの薄紅は珊瑚に似ていた。 音のない水が、細く、その葉の下、草の中を流れている。それが、潺々として巌に咽んで泣く谿河よりも寂しかった。 実際、この道では、自分たちのほか、人らしいものの影も見なかった・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 七「宮浜はな、今日は、その婦人が紅い木の実の簪を挿していた、やっぱり茱萸だろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児の目だもの、珊瑚かも知れん。 そんな事はとにかくだ。 直ぐに、嬉々と廊下から大廻りに、ち・・・ 泉鏡花 「朱日記」
出典:青空文庫