・・・ぶらぶら散歩して、三十分もたってから、ちょうど歩いていたスプレエ川の岸から、例の包を川へ投げた。あたりを見廻しても人っ子一人いない。 晩までは安心して所々をぶらついていた。のん気で午食も旨く食った。襟を棄ててから、もう四時間たっている。・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・健康ならばどんなにでも仕事の能率の上がる時でありながら気分が悪くて仕事が思うように出来ず、また郊外へ散歩にでも行けばどんなに愉快であろうと思うが、少し町を歩いただけで胃の工合が悪くなってどうにも歩行に堪えられなくなる。歩かなくても電車や汽車・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・金子さんも時々見に来てくれて親切に世話をやいてくれた。三浦内科に空室があるので午後三時頃入院するというので志んは準備に帰宅した。まちが代りに来て枕元に控えていた。 柔らかい毛布にくるまって上には志んの持って来た着物をかけられ、脚部には湯・・・ 寺田寅彦 「病中記」
ある晩私は桂三郎といっしょに、その海岸の山の手の方を少し散歩してみた。 そこは大阪と神戸とのあいだにある美しい海岸の別荘地で、白砂青松といった明るい新開の別荘地であった。私はしばらく大阪の町の煤煙を浴びつつ、落ち着きのない日を送っ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・それが飼犬と一緒に散歩に出たのを、とっさんに腰がたたないほど、天秤棒で擲られたのだというのだ。 しかし、善ニョムさんはケロリとしていた。「だけんど、おめえあの娘ッ子が……」「だけんどじゃねえや、とっさん」 息子は、負けずぎら・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・今日不忍池の周囲は肩摩轂撃の地となったので、散歩の書生が薄暮池に睡る水禽を盗み捕えることなどは殆ど事実でないような思いがする。然し当時に在っては、不忍池の根津から本郷に面するあたりは殊にさびしく、通行の人も途絶えがちであった。ここに雁の叙景・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 余は晩餐前に公園を散歩するたびに川縁の椅子に腰を卸して向側を眺める。倫敦に固有なる濃霧はことに岸辺に多い。余が桜の杖に頤を支えて真正面を見ていると、遥かに対岸の往来を這い廻る霧の影は次第に濃くなって五階立の町続きの下からぜんぜんこの揺・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・そして運動のための散歩の途中で、或る日偶然、私の風変りな旅行癖を満足させ得る、一つの新しい方法を発見した。私は医師の指定してくれた注意によって、毎日家から四、五十町の附近を散歩していた。その日もやはり何時も通りに、ふだんの散歩区域を歩いてい・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場の事だから、些か恰好の異った人間たちが、沢山、気取ってブラついていた。私はその時、私がどんな階級に属しているか、民平――これは私の仇名なんだが―・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・で、ある時小川町を散歩したと思い給え。すると一軒の絵双紙屋の店前で、ひょッと眼に付いたのは、今の雑誌のビラだ。さア、其奴の垂れてるのを一寸瞥見しただけなんだが、私は胸がむかついて来た。形容詞じゃなく、真実に何か吐出しそうになった。だから急い・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫