・・・彼はついに枕を噛みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵瀬沼兵衛の快癒も祈らざるを得なかった。 が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄であった。彼の病は重りに重って、蘭袋の薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う容・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・いらざる取り越し苦労ばかりすると思うかもしれんが、あれほどの用意をしても世の中の事は水が漏れたがるものでな。そこはお前のような理屈一遍ではとてもわかるまいが」 なるほどそれは彼にとっては手痛い刃だ。そこまで押しつめられると、今までの彼は・・・ 有島武郎 「親子」
・・・なんだかこう、神聖なる刑罰其物のような、ある特殊の物、強大なる物、儼乎として動かざる物が、実際に我身の内に宿ってでもいるような心持がする。無論ある程度まで自分を英雄だと感じているのである。奥さんのような、かよわい女のためには、こんな態度の人・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 小娘は釣をする人の持前の、大いなる、動かすべからざる真面目の態度を以て、屹然として立っている。そして魚を鉤から脱して、地に投げる。 魚は死ぬる。 湖水は日の光を浴びて、きらきらと輝いて、横わっている。柳の、日に蒸されて腐る水草・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照の傾向は、ようやく両者の間の溝渠のついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・しかも海を去ること一里ばかりに過ぎざるよし。漣の寄する渚に桜貝の敷妙も、雲高き夫人の御手の爪紅の影なるらむ。 伝え聞く、摩耶山とうりてんのうじ夫人堂の御像は、その昔梁の武帝、女人の産に悩む者あるを憐み、仏母摩耶夫人の影像を造りて大功徳を・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ここで雨さえやむなら、心配は無いがなアと、思わず嘆息せざるを得なかった。 水の溜ってる面積は五、六町内に跨がってるほど広いのに、排水の落口というのは僅かに三か所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがりと迂曲している。水の落ちるのは、干・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・『こないなことなら、いッそ、割腹して見せてやる』とか、『鉄砲腹をやってやる』とか、なかなか当るべからざる勢いであったんや。然し、いよいよ僕等までが召集されることになって、高須大佐のもとに後備歩兵聨隊が組織され、それが出征する時、待ちかまえと・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・的アナーキズム時代に遭逢したのだから、さらぬだに世間の毀誉褒貶を何の糸瓜とも思わぬ放縦な性分に江戸の通人を一串した風流情事の慾望と、淫蕩な田舎侍に荒らされた東京の廃頽気分とが結び付いて勢い女道楽とならざるを得なかった。椿岳は取換え引換え妾を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれどもまた多少一般の人生問題を論究せざるにあらず、これけだし余の親友京都便利堂主人がしいてこれを発刊せしゆえなるべし、読者の寛容を待つ。 明治三十年六月二十日東京青山において・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫