・・・其事に見われしもの之を事の持前というに、事の持前は猶物の持前の如く、是亦形を成す所以のものなり。火の形に熱の意あれば水の形にも冷の意あり。されば火を見ては熱を思い、水を見ては冷を思い、梅が枝に囀ずる鶯の声を聞ときは長閑になり、秋の葉末に集く・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・どうも莫迦々々しくてね。だから作をする時にゃ、精神は非常に緊張させるけれども、心には遊びがある。丁度、撃劒で丁々と撃合っては居るが、つまり真劒勝負じゃない、その心持と同なじ事だ。こんな風だから、他人は作をしていねば生活が無意味だというが、私・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・ロンドンの上流社会の住んでいる市区によくこんな立派な、幅の広い町があるが、ここの通りはそれに似ている。 ピエエル・オオビュルナンは良久しく物を案じている。もうよほど前からこの男は自己の思索にある節制を加えることを工夫している。神学者にで・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・この男の物を書く態度はいかにも規則正しく、短い間を置いてはまた書く。その間には人指し指を器械的に脣の辺まで挙げてまた卸す。しかし目は始終紙を見詰めている。 この男がどんな人物だと云うことは、一目見れば知れる。態度はいかにも威厳があって、・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆をしくもの、もって識見高邁、凡俗に超越するところあるを見るに足る。しこうして世人は俊頼と文雄を知りて、曙覧の名だにこれを知らざるなり。 曙覧の事蹟及び性行に関しては未だこれを聞く・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・そろりそろりと臑皿の下へ手をあてごうて動かして見ようとすると、大磐石の如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余はしばしば種々の苦痛を経験した事があるが、此度のような非常な苦痛を感ずるのは始めてである。それがためにこの二、三日は余の苦し・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・みイちゃんは婚礼したかどうかしらッ。市区改正はどれだけ捗取ったか、市街鉄道は架空蓄電式になったか、それとも空気圧搾式になったかしらッ。中央鉄道は聯絡したかしらッ。支那問題はどうなったろう。藩閥は最う破れたかしらッ。元老も大分死んでしまったろ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・先生も何があるのかと思ったらしく、ちょっとうしろを振り向いて見ましたが、なあになんでもないという風でまたこっちを向いて「右ぃおいっ」と号令をかけました。ところがおかしな子どもはやっぱりちゃんとこしかけたままきろきろこっちを見ています。み・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・されどもややあって正気に復し下の模様を見てあれば、いかにもその子は勢も増し、ただいたけなく悦んでいる如くなれども、親はかの実も自らは口にせなんじゃ、いよいよ餓えて倒れるようす、疾翔大力これを見て、はやこの上はこの身を以て親の餌食とならんもの・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ やがて、赤い布で凜々しく髪を包んだ二十二三のこれも元気な婦人労働者が、何冊もの本を小脇にかかえて入って来た。「――図書室の本が、まだモスクワから届かないんだってさ。手紙をやりましょうね」「お客さんよ」 その文化委員の婦人労・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
出典:青空文庫