・・・……露の底の松虫もろとも空しく怨みに咽んでいる。それならそれが生きていた内は栄華をしていたか。なかなかそうばかりでもない世が戦国だものを。武士は例外だが。ただの百姓や商人など鋤鍬や帳面のほかはあまり手に取ッたこともないものが「サア軍だ」と駆・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ ついでに宇野浩二氏の『子の来歴』についても一言生活としての例を挙げるとすると、この作も私は人々のいう如く感心をし、見上げた作品だと思ったが、しかし、この作品には、もっとも大切な親心のびくびくした感情というものは少しも出ていないように思・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・父の顔は嶮しくなった。「誰だ、この剃刀をぼろぼろにしたのは。」 父は片袖をまくって腕を舐めると剃刀をそこへあててみて、「いかん。」といった。 吉は飲みかけた湯を暫く口へ溜めて黙っていた。「吉がこの間研いでいましたよ。」と・・・ 横光利一 「笑われた子」
・・・明るい色の衣裳や、麦藁帽子や、笑声や、噂話はたちまちの間に閃き去って、夢の如くに消え失せる。秋の風が立つと、燕や、蝶や、散った花や、落ちた葉と一しょに、そんな生活は吹きまくられてしまう。そして別荘の窓を、外から冬の夜の闇が覗く。人に見棄てら・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫