・・・家を繞りてさらさらと私語くごとき物音を翁は耳そばだてて聴きぬ。こは霙の音なり。源叔父はしばしこのさびしき音を聞入りしが、太息して家内を見まわしぬ。 豆洋燈つけて戸外に出れば寒さ骨に沁むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・それは穏やかな罪のない眠りで、夢とも現ともなく、舷側をたたく水の音の、その柔らかな私語くようなおりおりはコロコロコロと笑うようなのをすぐ耳の下の板一枚を隔てて聞くその心地よさ。時々目を開けて見ると薄暗い舷燈のおぼろげな光の下に円座を組んで叔・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 妻子の水死後全然失神者となって東京を出てこの方幾度自殺しようと思ったか知れない。衣食のために色々の業に従がい、種々の人間、種々の事柄に出会い、雨にも打たれ風にも揉れ、往時を想うて泣き今に当って苦しみ、そして五年の歳月は澱みながらも絶ず・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・あわれこの罪なき声、かわたれ時の淋びしき浜に響きわたりぬ。私語くごとき波音、入江の南の端より白き線立て、走りきたり、これに和したり。潮は満ちそめぬ。 この寒き日暮にいつまでか浜に遊ぶぞと呼ぶ声、砂山のかなたより聞こえぬ。童の心は伊豆の火・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・それから段々話しているうちに老人は死後のことに就き色々と拙者に依托せられた、その様子が死期の遠からぬを知っておらるるようで拙者も思わず涙を呑んだ位であった、其処で貴所の一条を持出すに又とない機会と思い既に口を切ろうとすると、意外も意外、老人・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・しかし老人は真面目で「私も自分の死期の解らぬまでには老耄せん、とても長くはあるまいと思う、其処で実は少し折入って貴公と相談したいことがあるのじゃ」 かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々談声が聞え折々寂と静まり。又折々老人の咳・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・村長は驚いて誰が叱咤られるのかとそのまま足を停めて聞耳を聳てていると、内から老僕倉蔵がそっと出て来た。「オイ倉蔵、誰だな今怒鳴られているのは?」村長は私語いた。倉蔵は手を以てこれを止めて、村長の耳の傍に口をつけて、「お嬢様が叱咤られ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・乙女の星はこれを見て早くも露の涙うかべ、年わかき君の心のけだかきことよと言い、さて何事か詩人の耳に口寄せて私語き、私語きおわれば恋人たち相顧みて打ちえみつ、詩人の優しき頬にかわるがわる接吻して、安けく眠りたまえと言い言い出で去りたり。 ・・・ 国木田独歩 「星」
・・・うな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・かれは木の葉一つ落ちし音にも耳傾け、林を隔てて遠く響く轍の音、風ありとも覚えぬに私語く枯れ葉の音にも耳を澄ましぬ。山鳩一羽いずこよりともなく突然程近き梢に止まりしが急にまた飛び去りぬ。かれが耳いよいよさえて四辺いよいよ静寂なり。かれは自己が・・・ 国木田独歩 「わかれ」
出典:青空文庫