・・・それから、また志士や学者が言っているような「民衆」というような人間は捜してみると存外容易に見つからない。飢えに泣いているはずの細民がどうかすると初鰹魚を食って太平楽を並べていたり、縁日で盆栽をひやかしている。 これも別の事であるが流行あ・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・目がさめると裏の家で越後獅子のお浚いをしているのが、哀愁ふかく耳についた。「おはよう、おはよう」という人間に似て人間でない声が、隣の方から庭ごしに聞こえてきた。その隣の家で女たちの賑やかな話声や笑声がしきりにしていた。「おつるさん、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんが・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・但し米屋酒屋の勘定を支払わないのが志士義人の特権だとすれば問題は別である。 わたくしは教師をやめると大分気が楽になって、遠慮気兼をする事がなくなったので、おのずから花柳小説『腕くらべ』のようなものを書きはじめた。当時を顧ると、時世の好み・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・先ず案内の僧侶に導かれるまま、手摺れた古い漆塗りの廻廊を過ぎ、階段を後にして拝殿の堅い畳の上に坐って、正面の奥遥には、金光燦爛たる神壇、近く前方の右と左には金地に唐獅子の壁画、四方の欄間には百種百様の花鳥と波浪の彫刻を望み、金箔の円柱に支え・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ これらの人は自己の主張を守るの点において志士である。主張を貫かんとするの点において勇士である。主張の長所を認むるの点において智者である。他意なく人のために尽さんとするの点において善人である。ただ自他の関係を知らず、眼を全局に注ぐ能わざ・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・例えて見れば人間の声が鳥の声に変化したらどうしたって今日までの音楽の譜は通用しない。四肢胸腰の運動だっても人間の体質や構造に今までとは違ったところができて筋肉の働き方が一筋間違ってきたって、従来の能の型などは崩れなければならないでしょう。人・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・左りが熊、右が獅子でこれはダッドレー家の紋章です」と答える。実のところ余も犬か豚だと思っていたのであるから、今この女の説明を聞いてますます不思議な女だと思う。そう云えば今ダッドレーと云ったときその言葉の内に何となく力が籠って、あたかも己れの・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。此所に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起る! 起きるにちがいない! 町には何の変化もなかった。往来は相変らず雑鬧して、静かに音・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・「きみの口の周りは、まるで死屍でも食ったように、泥だらけだよ。洗ったらいいだろう。どうしたんだね」 深谷が、静かに言った。 が、その顔には、鬼気があふれていた。 それっきり、安岡は病気になってしまった。その五、六日後から・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
出典:青空文庫