・・・かれが谷川の岩の下に静かに身を沈めていると、泥だか何だかさっぱりわからぬ。それでかれは、岩穴の出口のところに大きい頭を置いておきまして、深くものを思うておりますると、ヤマメがちょいとその岩の下に寄って来る、と突如ぱくりと大きな口をあけてそれ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・むかし、ばらばらに取り壊し、渾沌の淵に沈めた自意識を、単純に素朴に強く育て直すことが、僕たちの一ばん新しい理想になりました。いまごろ、まだ、自意識の過剰だの、ニヒルだのを高尚なことみたいに言っている人は、たしかに無智です。」「やあ。」男・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 佐伯は、すぐに笑いを鎮めて、熊本君のほうに歩み寄り、「読書かね?」と、からかうような口調で言い熊本君の傍にある机の、下を手さぐりして、一冊の文庫本を拾い上げた。机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ だいたい火焔を鎮めてから私は妻の方に歩み寄って尋ねた。「ええ、」と静かに答えて、「これぐらいの事ですむのでしたらいいけど。」 妻には、焼夷弾よりも爆弾のほうが、苦手らしかった。 畑の他の場所へ移って、一休みしていると、また・・・ 太宰治 「薄明」
・・・「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますま・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・敵の軍艦が突然出てきて、一砲弾のために沈められて、海底の藻屑となっても遺憾がないと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗れた姿に胸を撲ったこともないではないが、これも国のためだ、名誉だと・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そうしてまっしぐらに水中をおそらく三メートル以上も突進して行って、静かに浮かんでいる白の親鳥のそばに浮き上がったかと思うと、いきなりその首筋に食いついて、この弱々しい小柄の母鳥のからだを水中に押し沈めた。驚いて見ていると、この暴君はまもなく・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・なんでも大きなラッパのようなものをこしらえて、それをあの池の水中に沈め、別の所へ、小さなボイラーを沈めたのを鎚でたたいて、その音を聞くような事をやったように覚えている。第二次の実験は隅田川の艇庫前へ持って行ってやったのだが、その時に仲間の一・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・もし浮瀬なく、強い者のために沈められ、滅されてしまうものであったならば、それはいわゆる月に村雲、花に嵐の風情。弱きを滅す強き者の下賤にして無礼野蛮なる事を証明すると共に、滅される弱き者のいかほど上品で美麗であるかを証明するのみである。自己を・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 諸君は私が伝通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであろう。外国から帰って来てまだ間もない頃の事確か十一月の曇った寒い日であった。ふと小石川の事を思出して、午後に一人幾年間見なかった伝通院を尋た事があった。近所の町・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫