・・・小説の勉強はまずデッサンからだと言われているが、デッサンとは自然や町の風景や人間の姿態や、動物や昆虫や静物を写生することだと思っているらしく、人間の会話を写生する勉強をする人はすくない。戯曲を勉強した人が案外小説がうまいのは、彼等の書く会話・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・溝の中に若い娘の屍体が横たわっているという風景も、昨日今日もはや月並みな感覚に過ぎない。老大家の風俗小説らしく昔の夢を追うてみたところで、現代の時代感覚とのズレは如何ともし難く、ただそれだけの風俗小説ではもう今日の作品として他愛がなさ過ぎる・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ あとは無我夢中で、一種特別な体臭、濡れたような触感、しびれるような体温、身もだえて転々する奔放な肢体、気の遠くなるような律動。――女というものはいやいや男のされるがままになっているものだと思い込んでいた私は、愚か者であった。日頃慎まし・・・ 織田作之助 「世相」
・・・それとも一種のすねた抗議の姿態だろうか。 娘は暫くだまって肩で息をしていたが、いきなり小沢の背中に顔をくっつけて、泣き出した。「何を泣いてるんだ……?」 小沢はわざと冷淡な声を出しながら、窓の外の雨の音を聴いていた。……・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・私は医科の小使というものが、解剖のあとの死体の首を土に埋めて置いて髑髏を作り、学生と秘密の取引をするということを聞いていたので、非常に嫌な気になった。何もそんな奴に頼まなくたっていいじゃないか。そして女というものの、そんなことにかけての、無・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・彼がそのなかに見る半ば夢想のそして半ば現実の男女の姿態がいかに情熱的で性欲的であるか。またそれに見入っている彼自身がいかに情熱を覚え性欲を覚えるか。窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸しているよう・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・働いたのは島の海女で、激浪のなかを潜っては屍体を引き揚げ、大きな焚火を焚いてそばで冷え凍えた水兵の身体を自分らの肌で温めたのだ。大部分の水兵は溺死した。その溺死体の爪は残酷なことにはみな剥がれていたという。 それは岩へ掻きついては波に持・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々と立ち罩めた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・そしてK君の死体が浜辺に打ちあげられてあった、その前日は、まちがいもなく満月ではありませんか。私はただ今本暦を開いてそれを確かめたのです。 私がK君と一緒にいました一と月ほどの間、そのほかにこれと言って自殺される原因になるようなものを、・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ うしろの闇の中で待っていたその娘は、急にへしゃげてしまった親爺の屍体によりかゝって泣き出した。「泣くでない。泣くでない。泣いたって今更仕様がねえ。」 武松が、屍体に涙がかゝっては悪いと思いながら、娘の肩を持ってうしろへ引っぱっ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
出典:青空文庫