・・・そのうちのある人は若々しい色艶と漆黒の毛髪の持主で、女のようなやさしい声で永々と陳述した。その後で立った人は、短い顔と多角的な顎骨とに精悍の気を溢らせて、身振り交じりに前の人の説を駁しているようであった。 たださえ耳の悪いのが、桟敷の不・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・伊藤痴遊であったかと思う、若いのに漆黒の頬髯をはやした新講談師が、維新時代の実歴談を話して聞かせているうちに、偶然自分と同姓の人物の話が出て来た。Sが笑い出したら、講談師も気がついたか自分の顔ばかり見ながらにやにやして話をつづけた。 銀・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・椅子一名拷問椅子にのせられたとき、痛くないという約束のが飛び上がるほど痛くて、おまけにそのあとの痛みが手術前の痛みに数倍して持続したので、子供心にひどく腹が立って母にくってかかり、そうしてその歯医者の漆黒な頬髯に限りなき憎悪を投げつけたこと・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・頭はいがぐりであったが、そのかわりに立派な漆黒なあごひげは教頭のそれよりも立派であった。大きな近眼鏡の中からは知恵のありそうな黒い目が光っていた。引きしまった清爽な背広服もすべての先生たちのよりも立派に見えた。 まず器械の歴史から、その・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・並みはずれに大きな頭蓋骨の中にはまだ燃え切らない脳髄が漆黒なアスファルトのような色をして縮み上がっていた。 N教授は長い竹箸でその一片をつまみ上げ「この中にはずいぶんいろいろなえらいものがはいっていたんだなあ」と言いながら、静かにそれを・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・ある時たまたま逢った同窓と対話していた時に、その人の背後の窓から来る強い光線が頭髪に映っているのを注意して見ると、漆黒な色の上に浮ぶ紫色の表面色が或るアニリン染料を思い出させたりした。 またある日私の先輩の一人が老眼鏡をかけた見馴れぬ顔・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・土耳古人たちは、みんなまっ赤なターバンと帯とをかけ、殊に地学博士はあちこちからの勲章やメタルを、その漆黒の上着にかけましたので全くまばゆい位でした。私は三越でこさえた白い麻のフロックコートを着ましたが、これは勿論、私の好みで作法ではありませ・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 特に一つ社会の枠内で、これまで、より負担の多い、より忍従の生活を強いられて来た勤労大衆、婦人、青少年の生活は、社会が、封建的な桎梏から自由になって民主化するということで、本当に新しい内容の日々を、もたらされるようになるからである。・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・と知りつつ描いている実に多くの若い男女も、一度、真に愛さんと欲する熱情に燃え、真に幸福を追求すれば、現実は、おのずから社会の矛盾をそれらの人々の前にさらし、希望するとしないにかかわらず、何かの形でその桎梏との決戦をよぎなくさせる。真によく愛・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・女らしさというものの曖昧で執拗な桎梏に圧えられながら生活の必要から職業についていて、女らしさが慎ましさを外側から強いるため恋愛もまともに経験せず、真正の意味での女らしさに花咲く機会を失って一生を過す人々、または、女らしき貞節というものの誤っ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
出典:青空文庫