・・・……湯気に山茶花の悄れたかと思う、濡れたように、しっとりと身についた藍鼠の縞小紋に、朱鷺色と白のいち松のくっきりした伊達巻で乳の下の縊れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様が軽く靡いて、片膝をやや浮かした、褄を友染がほんのり溢れる。露の垂りそ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・五株、六株、七株、すらすらと立ち長く靡いて、しっとりと、見附を繞って向合う湯宿が、皆この葉越に窺われる。どれも赤い柱、白い壁が、十五間間口、十間間口、八間間口、大きなという字をさながらに、湯煙の薄い胡粉でぼかして、月影に浮いていて、甍の露も・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 湖も山もしっとりとしずかに日が暮れて、うす青い夕炊きの煙が横雲のようにただようている。舟津の磯の黒い大石の下へ予の舟は帰りついた。老爺も紅葉の枝を持って予とともにあがってくる。意中の美人はねんごろに予を戸口にむかえて予の手のものを受け・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・そして、一時は、ふくれあがって、痛々しそうに見えた土までが、しっとり湿っておちついていました。元気のなかった、憂欝な青木の葉も青い空をながめるように、頭をもたげました。赤い実までがいきいきして、ちょうど、さんごの珠のように、つやつやしく輝い・・・ 小川未明 「小さな草と太陽」
・・・いつしか、日はまったく暮れてしまって、砂地の上は、しっとりと湿り気を含み、夜の空の色は、藍を流したようにこくなって、星の光がきらきらと瞬きました。港の方は、ほんのりとして、人なつかしい明るみを空の色にたたえていたけれど、盲目の弟には、それを・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・ 草原や、斜丘にころびながら進んで行く兵士達の軍服は、外皮を通して、その露に、襦袢の袖までが、しっとりとぬれた。汗ばみかけている彼等は、けれども、「止れ!」の号令で草の上に長々ところんで冷たい露に頬をぬらすのが快かった。 逃げて行く・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・酔いしれた少女のからだのせいでもあった。しっとりと腕に重い、この魚のようにはつらつとした肉体の圧迫に、私は酔心地どころではなかった。幸福にもまちで誰にも見つからずに私たちは百花楼の門まで来た。大きい木の門は固くとざされていた。私は当惑した。・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・しかし池畔からホテルへのドライヴウェーは、亭々たる喬木の林を切開いて近頃出来上がったばかりだそうであるが、樹々も路面もしっとり雨を含んで見るからに冷涼の気が肌に迫る。道路の真中に大きな樹のあるのを切残してあるのも愉快である。 スイスあた・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・それがそぼふる秋雨ににじんで、更にしっとりとした情趣を帯びていた。 翌朝港内をこめていた霧が上がると秋晴れの日がじりじりと照りつけた。電車で街を縦走して、とある辻から山腹の方へ広い坂道を上がって行くと、行き止まりに新築の大神宮の社がある・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
出典:青空文庫