・・・ 此のしなやかなたよたよしい楓がそよりともしないと云うのは―― 若し指を触れたら温かい血行を感じ人間の皮膚の通りな弾力を感じるだろうと思う程「なまなましたふくらみ」を持って居る木は、私に植物と云うより寧ろどうしても動物――而かも人間・・・ 宮本百合子 「雨が降って居る」
・・・極めて貴族的な純白のコリーが、独特にすらりと長い顔、その胴つき、しなやかな前脚の線をいっぱいにふみかけ、大きい塵芥箱のふたをひっくりかえして、その中を漁っているのであった。人気ない樹かげと長い塀との間の朝の地べたから巨大な白い髄が抽け出たよ・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・さし絵にはまばゆいほど宝石をちりばめた冠をかぶって、しなやかな体を楼の欄にもたせてまっかな血を流して生と死との間にもがき苦しんで居る男をつめたく笑って見て居るところが書かれてあった。さし絵のものすごさにつりこまれてお龍は熱心にそれによみふけ・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立ち、秀麿はその二三歩前に、痩せた、しなやかな体を、まだこれから延びようとする今年竹のように、真っ直にして立ち、二人は目と目を見合わせて、・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ いつか Kambodscha の酋長がパリに滞在していた頃、それが連れて来ていた踊子を見て、繊く長い手足の、しなやかな運動に、人を迷わせるような、一種の趣のあるのを感じたことがある。その時急いで取った dessins が今も残っている・・・ 森鴎外 「花子」
・・・娘の手は白くて、それにしなやかな指が附いている。 この時ツァウォツキイが昔持っていて、浄火の中に十六年いたうちに、ほとんど消滅した、あらゆる悪い性質が忽然今一度かっと燃え立った。人を怨み世を怨む抑鬱不平の念が潮のように涌いて来た。 ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・私は世界の運動を鵜飼と同様だとは思わないが、急流を下り競いながら、獲物を捕る動作を赤赤と照す篝火の円光を眼にすると、その火の中を貫いてなお灼かれず、しなやかに揺れたわみ、張り切りつつ錯綜する綱の動きもまた、世界の運動の法則とどことなく似てい・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂げに黙って・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・白い柔らかさは抽出せられているが、中に血の通っている、しなやかな、生に張り切った実質の感じは、全然捨て去られている。全体を漠然と描いておいて、処々に細かい描写を散らしてあるのも、暗示的な描き方ではあるが、抽象的に過ぎる。思うに画家の目ざすと・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・またその弾性のこだわりのないしなやかさの内にあります。それは青春期の肉体のみずみずしさとちょうど相応ずるものです。そうして年とともに自然に失われて、特殊の激変に逢わない限り、再び手に入れることのむずかしいものです。 この時期には内にある・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫