・・・ 何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚も、しっきりなく往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。 勿論窓の内の陽気なことも、明い電燈の光と言い、大きなモロッコ皮・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・殊に窓へ雨がしぶくと、水平線さえかすかに煙って見える。――と云う所から察すると、千枝子はもうその時に、神経がどうかしていたのだろう。 それから、中央停車場へはいると、入口にいた赤帽の一人が、突然千枝子に挨拶をした。そうして「旦那様はお変・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・ここに林のごとく売るものは、黒く紫な山葡萄、黄と青の山茱萸を、蔓のまま、枝のまま、その甘渋くて、且つ酸き事、狸が咽せて、兎が酔いそうな珍味である。 このおなじ店が、筵三枚、三軒ぶり。笠被た女が二人並んで、片端に頬被りした馬士のような親仁・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・とドス声を渋くかすめて、一つしゃくって、頬被りから突出す頤に凄味を見せた。が、一向に張合なし……対手は待てと云われたまま、破れた暖簾に、ソヨとの風も無いように、ぶら下った体に立停って待つのであるから。「どこへ行く、」 黙って、じろり・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・そして、彼等はただ老境に憧れ、年輪的な人間完成、いや、渋くさびた老枯を目標に生活し、そしてその生活の総勘定をありのままに書くことを文学だと思っているのである。しかも、この総勘定はそのまま封鎖の中に入れられ、もはや新しい生活の可能性に向って使・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・洒落ているといえば、宿なしとは見えぬくらい、洒落た服装である。渋く垢ぬけているのだ。 更に垢ぬけているといえば、その寝顔は、ぞっと寒気がするくらいの美少年である。 胸を病む少女のように、色が青白くまつ毛が長く、ほっそりと頬が痩せてい・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・馬の尻をしぶく鞭の音が凍る嵐にもつれて響いてきた。「どうした、どうした?」「逃がしたよ。」「怪我しやしなかったかい?」「あゝ、逃がしちゃったよ。」 栗本の笑う白い歯が闇の中にあった。 四 馬が苦・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・路行く人や農夫や行商や、野菜の荷を東京へ出した帰りの空車を挽いた男なんどのちょっと休む家で、いわゆる三文菓子が少しに、余り渋くもない茶よりほか何を提供するのでもないが、重宝になっている家なのだ。自分も釣の往復りに立寄って顔馴染になっていたの・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・「まだ榎木の実は渋くて食べられません。もう少しお待ちなさい。」とそう申しました。 弟は気の短い子供で、榎木の実の紅くなるのが待って居られませんでした。お爺さんが止めるのも聞かずに、馳出して行きました。この子供が木の実を拾いに行きます・・・ 島崎藤村 「二人の兄弟」
・・・が新潮社から出版せられて、私はその頃もう高等学校にはいっていたろうか、何でも夏休みで、私は故郷の生家でそれを読み、また、その短篇集の巻頭の著者近影に依って、井伏さんの渋くてこわくて、にこりともしない風貌にはじめて接し、やはり私のかねて思いは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫