・・・碧り積む水が肌に沁む寒き色の中に、この女の影を倒しまにひたす。投げ出したる足の、長き裳に隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓を擦る右の手が糸に沿うてゆるく揺く。頭を纏う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然たる水・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・それも自分ゆえであると、善吉の真情が恐ろしいほど身に染む傍から、平田が恋しくて恋しくてたまらなくなッて来る。善吉も今日ッきり来ないものであると聞いては、これほど実情のある人を、何であんなに冷遇くしたろう、実に悪いことをしたと、大罪を犯したよ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 彼女のむきな調子には何か涙が滲む程切迫つまったところがあった。余程急に出立でもしなければならないのか、又はその転地が夫婦にとって余程の大事件であるか、何方にしろ只ごとではないと思わせた動顛と苦しさとが彼女の全身に漲っていたのである。・・・ 宮本百合子 「或る日」
出典:青空文庫