-
・・・しかし、明治三十六年十月八日、露国の満洲撤兵第三期となった時、戦争はもはや到底避けられないことが明かになるや、黒岩涙香は主戦論に一変した。幸徳、堺は「万朝報」を退社し、「平民社」を創立した。そして、十一月十五日「平民新聞」第一号を発行した。・・・
黒島伝治
「明治の戦争文学」
-
・・・すなわち国家風教の貴き所以にして、たとえば南宋の時に廟議、主戦と講和と二派に分れ、主戦論者は大抵皆擯けられて或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義を悪んで主戦者の孤忠を憐まざる者なし。事の実際をいえば弱宋の大事すでに去り・・・
福沢諭吉
「瘠我慢の説」