・・・しかしこのけなげな犬はどこかへ姿を隠したため、夫人は五千弗の賞金を懸け、犬の行方を求めている。 国民新聞。日本アルプス横断中、一時行方不明になった第一高等学校の生徒三名は七日上高地の温泉へ着した。一行は穂高山と槍ヶ岳との間に途を失い、か・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・ 菜の花畠、麦の畠、そらまめの花、田境の榛の木を籠める遠霞、村の児の小鮒を逐廻している溝川、竹籬、薮椿の落ちはららいでいる、小禽のちらつく、何ということも無い田舎路ではあるが、ある点を見出しては、いいネエ、と先輩がいう。なるほど指摘され・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小禽ながら、自由を確保し、人間界とはまったく別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣然日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・何事かと思って出てみると、国際電報によって昨年度と今年度のノーベル賞金の受賞者の名前の報知が届いた、その一人はアインシュタインで、もう一人はコーペンハーゲンのニールス・ボーアという人だそうだが、このボーアという人はいったいどんな人でどういう・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・唯横浜正金銀行と三井物産会社とが英租界の最も繁華な河岸通にあったのだという。 美租界と英租界との間に運河があって、虹口橋とか呼ばれた橋がかかっていた。橋をわたると黄浦江の岸に臨んで洋式の公園がある。わたくしは晩餐をすましてから、会社の人・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・傾きやすき冬日の庭に塒を急ぐ小禽の声を聞きつつ梔子の実を摘み、寒夜孤燈の下に凍ゆる手先を焙りながら破れた土鍋にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事である。一・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・池のほとりには蒹葭が生えていたが、水は鉄漿のように黒くなって、蓮は既に根も絶えたのか浮葉もなく巻葉も見えず、この時節には噪しかるべき筈の蛙の声も聞えない。小禽や鴉の声も聞えない。時節ちがいである上に、時間もおそいので無論遊覧の人の姿も見えな・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・風は沈静して、高い枯草の間から小禽の群が鋭い声を放ちながら、礫を打つようにぱっと散っては消える。曳舟の機械の響が両岸に反響しながら、次第に遠くなって行く。 わたくしは年もまさに尽きようとする十二月の薄暮。さながら晩秋に異らぬ烈しい夕栄の・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・そは遮ぎられたる風の静なる顫動さながら隠れし小禽のひそかに飛去るごとくさとむらがり立ちて起ると見れば消え去るなり。また Odelettes と題せられた小曲の中にも、次の如きものがある。Un petit rose・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・夕立おそい来る時窓によって眺むれば、日頃は人をも恐れぬ小禽の樹間に逃惑うさまいと興あり。巣立して間もなき子雀蝉とともに家の中に迷入ること珍らしからず。是れ無聊を慰むる一快事たり。 永井荷風 「夕立」
出典:青空文庫